アルメニアのリダの家



コーカサス旅行記

~ジレンマ~

トビリシからアルメニアの首都、エレバンにたどり着いたときにはすでに日は明けていた。

夜行列車は思いのほか快適だった。3等であっても一人ひとりに長いすが与えられ、列車内にある布団をその長いすに敷く。毛布や枕もある。僕はトビリシで乱れに乱れた生活リズムであったにもかかわらず列車の中で比較的よく眠ることが出来た。

あかるくなると同時に自然に目が冷めた。どうやらまだエレバンには到着していないようだった。旧ソヴィエト圏のイメージに合いそうな老婆はなぜかこっちを見て笑っていた。彼女は頭がおかしいのか、それとも僕に何か可笑しいところがあったのかはわからなかったが、僕は不快感を隠しながら無視をしていた。

そんなに時間も経たずに列車はエレバンに着いた。

旧ソヴィエト圏はユースホステルがまだそこまで発達しておらず、値段も高い。トビリシは最近になりホステルジョージアやロマンチックホステルなどの所謂安宿が発達してきているがグルジアでも地方に行けばまだ民泊をする。トビリシの宿でコピーをさせてもらった旅行人ノートにも安宿の項目に「~の家」と書かれてあった。

そういえばキューバも同じだった。キューバも第二次世界大戦後にはソヴィエトの影響下にあり東西冷戦の中でアメリカとの確執が一気に戦争状態に突入する寸前まで行った歴史を思い出した。

この旅の初期の初期、今から約1年9ヶ月前に、僕は確かに「ホワキナの家」に泊まり「ダマリスの家」で長期間スペイン語を勉強していた。今になりあのころが懐かしいと感じられた。旅中に旅中が懐かしくなると言う感覚は人生において初めてだった。

エレバンには「リダの家」という家がある。ホステルではない完全な民泊であるが、日本人には有名な場所となっていた。トビリシの情報ノートでも、実際に行った人からも、自分から情報を求めなくても自然にリダの家のことは耳に入ってきていた。

一泊250円。この金額は今回の旅では、カウチサーフィンを除けば、最安値の宿だった。

駅の外に出ると騎馬像が見えた。「確かここから左に行って大きな木のあるところを右に曲がって2件目だったはず、、」ホテルではないただの民家のため、住所などは不明だが、ネット上には地図や行きかたがやまほどあがっていた。僕はトビリシにいたときにパソコン上に見える地図を写真にとりメモ代わりにしていた。

思いのほか簡単にリダの家に着いた。70代~80歳くらいの優しいおばあちゃんが出てきた。彼女はアルメニア語以外、英語はおろかロシア語も片言しか話せない人だった。僕はとりあえず片言のロシア語で「ズドラーストビーチェ(こんにちは)」といい、「(ハラショー?)いいですか?」と聞いた。おばあちゃんは優しそうな笑顔で首を縦に振り、「ジャパニーズフィニッシュオーケー」と片言の英語で言った。あまり良くわからなかったが、「今日日本人が出てベッドがあくからその後にはいればいい」といっているような気がした。

トビリシで出会ったいつもの若者とこうのすけ君は前日にエレバン入りしていた。彼らと話そうと思ったが宿は静まり返っており結局僕はロビーのソファーでリダの家の情報ノートを見ながら眠ってしまった。ソファーしばらく眠るといつもの声がしてきた。僕は外に出て彼らに「おはよう」と言った。時計を見ると午後1時だった。



トラブゾンであれだけ先のことだと思われたイランの大統領選挙も終わった。これで、少なくとも理論上は、ビザが取れる。リダの家にいた人たちの中にはイランビザを待っていた人たちもいた。彼らは事前にイラン大使館にいたらしく、どうやらアルメニアの旅行代理店でビザの申請代行を行っていると教えてくれた。

僕は彼らと一緒にイランビザの申請に行った。暗く無機質な地下鉄で2つ目の駅を降りて彼らについていくままに流されるように代理店に向かっていた。

旅行代理店には綺麗なアルメニア人女性が並んで受付業務をやっていた。僕らはそのうちの一人に話しかけ、イランビザを申請したいと告げた。すると彼女は「最大1ヶ月待ち、費用は110ドル」と素っ気無く行った。

僕らは一度外に出て考えた。各々事情はある。トルコ経由でヨーロッパに向かうため、そこまでしてイランビザとる必要はない面々もいれば自分みたいに飛行機を使わない限り、イランを経由しなければ日本に帰ることすらできない状況の者もいた。

僕はイランにどうしても行きたかった。なおかつアルメニアに長期滞在することは大して問題ではなかった。グルジアは計算外だったとしても、アルメニアを含むカフカス諸国にはある程度長くいるのだろうという予測はイスタンブールに入った時点から考えていたことだったからだった。ビザ代もトラブゾンでとった場合、65ユーロから70ユーロ。そこまで変わるわけではない。

即日で65ユーロほどで取得できるトラブゾンに比べて、相当の労力であるにもかかわらず、僕は自分でも驚くほどあっさりとイランビザを取ることを決め、受付の女性に「イランビザを申請したい」と告げた。だが、彼女は「イランビザの申請にはホテルの予約が必要で、その予約はこの代理店でしなければならない」とあっさりと言った。

イランの大統領選が終わり、アルメニアでイランビザを取るという思惑は完全に外れた。

まだ手はあった。ここでトルクメニスタンビザをとりアゼルバイジャンでウズベキスタンビザを取ればフェリーでトルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスとわたることはできる。途中にあるタジキスタンは中央アジアでビザを取るか、あるいは行かないという方法もあった。

僕は次の日にトルクメニスタン大使館へ向かった。おきてすぐにタクシーに乗り旅行人に書いてある住所に向かった。住所は間違えていたか、もしくは移転したかはわからなかったが、その場所には何もなかったが、道行く人にトルクメニスタンと言うことでなんとなくたどり着くことができた。

「5日間のトランジットビザがほしい」と受付に言った。すると受付は「トルクメニスタンビザを取るにはレターが必要だ」と答えた。現地からのインビテーションレターのことなのか、日本大使館のレコメンデーションレターのことなのか、いずれにしても在モスクワ日本大使館が管轄しているアルメニアにおいては両方不可能であることは明白であった。

早く日本に帰りたい。その思いはどんどんと強くなっていった。バックパッカーから次のステップにいくこと。その思いは日に日に強くなっていく。それなのにビザが取れずに立ち往生している。

このビザ取り合戦の行き詰まりを楽しもうとも思えた。過程を楽しむことそのもの、それこそが旅の醍醐味であることは、旅をしていれば誰でもわかることだった。でも、日本に帰りたい、旅を終えたいという気持ちも日に日に強くなってきている自分の感情を消すことはできななかった。

飛行機を使うか?駅のにあるWIFIを拾いながらネットを開き安い航空券を探した。一つだけ比較的安い航空券を見つけることができた。ペガサスエアー、バクーからカザフスタンの大都市、アルマトイ行き。これを買えばすべてがスムーズに行く、アルマトイからキルギスの首都ビシュケクに行き、ウズベキスタンとタジキスタンのビザを取る。あとは中央アジアの国々をまわってビシュケクに戻り新疆ウイグル自治区に入るだけ。そこから西安・上海とわたれば、次は、この旅最後の国、日本。

飛行機を使っていいのだろうか?いまどき飛行機を使うことなどたいしたことではない、安いチケットも売っている。でも、トルクメニスタンとイランはあきらめることになる。いいのか?これでいいのだろうか?自分自身のジレンマが頂点に達した。旅を楽しみたい。楽しんでいる。でも早く帰りたい。駅で1時間ほど考えた。飛行機を使うか使わないか、この2択だけでずっと考え込んでいた。

アゼルバイジャンでイランビザを取る。イランでトルクメニスタンとウズベキスタンのビザを取る。トルクメニスタンからはビザさえあればキルギスまでいける。最悪トラブゾンまで戻ってイランビザを取ってイランイン。そのルートもまだ残されていた。

でも、時間がかかる。これで本当に8月に帰れるのだろうか?疑問になった。お金も時間もあまり残されていなかった。それ以上に、自分の中で終わりにしたいという思いはどんどんと強くなり始めてきていた。それでも終わりにしたくない、最後まで楽しみたいという思いは同じように強かった。

もう1年9ヶ月になろうとしているこの旅に、終止符を打つ心の準備ができないままに、それでも終止符を打ちたいと考えるジレンマに駆られていた。

ペイメントのページまで行き、あと少しのところでチケットを買うのをやめた。アゼルバイジャンでイランビザを取ろうと決めた。でも、それでも、まだ迷いは晴れていなかった。

リダおばちゃんの家に帰った。日本人バックパッカーたちは中庭でワイワイと話をしていた。僕はすぐさまそれに加わった。日本人と話すという今までほとんどやっていなかった行為は逆に新鮮であり勉強になることが多かった。僕は話を聞き、自分の話をし、そして笑った。

結局、僕はリダおばあちゃんの家である日は日本人バックパッカーの若者が作ってくれた親子丼を食べ、ある日はアルメニア特産のキャビアやイクラを食べ、若い日本人旅行者に混じりながら日本の経済がどうだとか、中東の問題はどうだとか、という熱い議論をしたりトランプの大貧民やダハブゲームを楽しんだり、という所謂典型的日本人バックパッカーの生活をこの上なく満喫していた。

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