アルメニア旅行記/アルメニアの水かけ祭り



コーカサス旅行記

~水掛祭り~

こうのすけくんはエレバンで家を借りた。どうやら長期滞在をするようなので僕は便乗して彼の家に住まわせてもらうことにした。リダの家は日本円にして250円ほどであり、無料で泊まれるというのはそんなに大きなことではなかったが、アルメニアで普通の家に住むことも面白そうだと思い、彼の家に移動した。

彼の家は街のはずれにあり、マルシュルートカで20分ほどだった。僕は近くのスーパーのWIFIを使いネットをして、彼の家に帰るという、リダの家で日本人バックパッカーに囲まれるのとはまた違う日々を過ごすことになった

アルメニアは総じて物価が安かった。宿も250円と他の国に比べて破格の値段であるが、レストランでヒンカリと呼ばれるコーカサス風の餃子やケバブを150円くらいでおなかいっぱい食べることができ、アイスも60円くらいだった。この物価の安いアルメニアなら確かに長期滞在に向いている、ロシア語を勉強している人にとってアルメニアは一つの長期滞在スポットになりうるのだと思えた。

彼の家に移動したのはもう一つ理由があった。僕はやはりカウチサーフィンを使って現地人と交流をするということを忘れられなかった。日本人バックパッカーとダラダラと過ごすのもそんなに嫌いではないが、やはり現地人と現地のことを話し、様々な経験をすることは僕にとってずっと続けてきているたびのスタイル、もはや旅そのものであった。

カウチサーフィンを使って何人かのアルメニア人にメッセージを送った。ヨーロッパと違い家に泊まる必要性がないというのは僕に余裕を与えた。家に泊まって宿代を浮かすというのは2次的な目的であるとはいえ、ヨーロッパでは相当大きなプレッシャーとなっていた。ヨーロッパでは自分の経済的、金銭的余裕がなかったため、必要以上に自分を追い込んで家に泊めてほしいという目的でメッセージを送っていたのだと、物価の安い国にきてからわかった。

リダの家にいたとき、僕と同じようにカウチサーフィンを使って旅をしている一人の日本人は「たとえ家に泊まれなくてもいいんですよ。ただ外国人と話すだけでもいいんですよ」と言った。そのとおりだった。カウチサーフィンの目的は家に泊まってお金を浮かすことではなく、現地人との交流を楽しむこと。物価の安い国では余裕を持って楽しくできる。

何人かのアルメニア人はメッセージを返してくれ、そのうちの一人とはタイミングが合い、会うことになった。カウチサーフィンでしばらくやりとりをしていくうちに、サラは英語で「明日の夜8時にこのパブで会いましょう」と言った。僕は昼間こうのすけくんとアルメニア人ソナと一緒に遊んだあと、このパブに向かった。

だが、サラは一向にあらわれなかった。僕はパブの外でタバコを吸いながら彼女を待っていた。30分ほど待っても来ないので別のレストランにいき、ケバブを食べた。ちょっとだけ携帯を持っていない自分と、中々時間を守らない現地人に対してイライラは募ったが、もはやこのスチュエーションにもなれた。また、ヨーロッパとは違って僕は強気だった。ある程度の時間を待ってこなければ帰ればいい。とりあえずケバブを食べてもう一度パブに行っていなければ帰ろうと思った。

パブに帰るとサラは来ていた。彼女は僕のフェイスブックに仕事の都合で遅れるとメッセージを送っていたようだが、当然WIFIのない場所でフェイスブックは見れない。

だが、そんなことはどうでもよかった。僕は彼女と一緒にビールを飲んで楽しくおしゃべりをして写真をとった。アルメニア物価からしたら破格のハイネケンを飲んだが、別にそれは痛手ではなかった。長らく日本人バックパッカーのように安宿に泊まっていた自分にとってカウチサーフィンで現地人と話をすることの楽しさを思い出した。



ある日僕はリダの家に帰った。リダの家では何事もなかったように家族が住み、新しい日本人が着ていた。ある意味では、僕は日本人のチャリダーを待っていた。トラブゾンで知り合い、トビリシでもずっと一緒だったチャリダーカップルはアルメニアに来ていた。彼らはここでイランビザを取ってイランから中央アジアに抜ける予定なので、エレバンのリダの家で再開しようとフェイスブックで話していた。

僕はリダの家で彼らと再会し、日本人バックパッカーたちと所謂「シェア飯」をした。こうやって現地人と日本人バックパッカーとの交流を同時にやるということは今まででは考えられなかった。僕にとってこの二つはまったくといっていいほど「違う」ものだった。なぜかわからないが、多くの日本人バックパッカーは現地人に対してシャイになっている感覚をずっと覚えていた。現地の宿のスタッフや道端で知り合った人と仲良くなる。バックパッカーにとっては現地人との交流はそのくらいのものだった。仲良くなって家に泊めてもらったという話ももちろん聞くが、その話にはどこか「壁」があるように感じられた。

僕は少しばかりの時間このことについて考えたが、うまい言葉は見つからなかった。そして段々そういうことはどうでもよくなった。うまい言葉を見つける必要などはどこにもなかった。旅などというものは人それぞれ楽しければいい。色々な旅のスタイルがある。違ってもいい。同じでもいい。何でもいい。

僕はこの言葉のとおり、午前中日本人と一緒に、そして午後からはアルメニア人と一緒に水掛祭りに参加した。こうのすけくんの紹介で知り合ったマリアムは以前「7月7日は水掛祭りでみんな大騒ぎをする」といっていたのを思い出した。

この日はリダの家は満杯で僕はキッチンに用意されたベッドに寝た。ハエや蚊がうるさくて中々眠れないまま、朝はやってきた。すると何人かの日本人はすでにおきていて僕は久しぶりに朝食をとり健康的な朝を迎えた。

水掛祭りは全アルメニアで人に水をかける祭りとされていて、この日だけはどんなに水をかけられても無礼講ということだった。マリアムは「電子機器は持っていかないほうがいいよ」と教えてくれた。

午前11時ごろに日本人たちは水掛祭りをやっているオペラの近くの「白鳥の湖」に出かけた。その途中の道でも子供たちは水鉄砲やバケツで水をかけてくる。普段はつまらなさそうにしているアルメニア人もこの日はみんな目が輝いていた。

白鳥の湖はカオスだった。

アルメニア人はみな楽しそうに、ある意味ではクレイジーなほどに、水を掛け合い、そしてプールに飛び込んで遊んでいた。僕ははしゃぎながらプールに入り、放水車の水を浴びた。なんだか楽しかった。この日はアルメニアはアルメニアではなかった。みな明らかに、おかしいほどに、楽しんでいた。

ずぶぬれになった状態で僕はマリアムとの待ち合わせの場所の駅に向かった。マリアムと彼氏はずぶ濡れになった僕の姿を見て笑った。そして近くの公園で「平和な」イベントをやっていて、僕は彼女らの友達とも合流し、「平和に」水掛祭りを満喫した。



水掛祭りを満喫した数日後には、アルメニアを出なければならない日がやってきた。結局アルメニアにも3週間ほど滞在した。イランビザをあきらめたことで日程に余裕ができ、僕はアルメニアを心行くまで楽しむことができ、多くの現地の友達ができた。やっぱり僕は旅をしながら、自分のスタイルである現地人とのネットでの出会いをすてるということはできなかった。

アルメニアとアゼルバイジャンはボーダーがないため、マルシュルートカでグルジアにいって電車に乗り換えてアゼルバイジャンに入らなければならない。

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