キルギス青年海外協力隊



中央アジア旅行記

~キルギス青年海外協力隊を尋ねて~

バスは国境に着いた。

イミグレはすんなりと通れた。キルギスは中央アジアで唯一、ビザを必要としない国であり、なおかつ税関などもない。なんの質問もなくスタンプを押されて入国を果たした。

僕はチョルポンアタ行きのバスを探した。この国境が地図上のどこにあるかもまったくわからなかったが、アルマトイからチョルポンアタは地図で見る限りではそんなに遠くないように思えた。誰かが4時間ほどで到着すると言っていたことを思い出した。

バスを探しているとある男が話しかけてきた。乗り合いタクシーの客引きのようだった。彼は当然のようにロシア語しか話せなかったが、指で4という数字を出してきたため400ソムでチョルポンアタまでいってくれるようだった。

400ソムは大体800円であり、そんなに高くないように思えたため、僕はそのまま承諾してタクシーに乗った。

30分ほどでタクシーはガソリンスタンドに寄った。そのときに彼はお金を請求してきたため、僕は国境で両替をした200ソム札2枚を彼に手渡した。すると彼は怒って「足りない足りない」というような素振りを見せた。

僕は意味がわからず「さっき400ソムと言っただろう」というようなことを言った。ロシア語と日本語という一切の共通言語がない状態ではあったが、なんとなく意思疎通は取れた。電卓を渡すとどうやら彼は4000ソムという数字を見せてきた。

ありえない。キルギスと言うそんなに物価の高くない国で4000ソム、8000円など払えるわけがない。僕は彼に絶対に払わないという意志を見せて国境に戻るように言った。彼は「国境に戻るにも200ソムかかる、200ソム払え」といってきた。当然のように無視をして僕は英語で「いいから国境にもどれ」と言った。

彼はしぶしぶと戻った。100パーセントこの運転手が悪いが、4という数字で勝手に400ソムと勘違いしたこちらにも非がある気がして僕は100ソム札を1枚だけ手渡した。

ここがどこなのかもわからない。チョルポンアタになんとか今日中につきたかったため、とりあえず周りの人にチョルポンアタチョルポンアタと言ってみた。チョルポンアタという地名だけはどうやら共通語のようだった。周りの人は「バグザールに行け」というようなことを言った。

バグザールとは地名なのか?それともバスターミナルのことなのか?それもまったくわからなかったがとりあえずバグザールという場所に向かうバスに乗った。20ソムだった。やはりさっきの運転手はありえないほどぼったくってきていると確信しながらバスはバグザールに向かった。

1時間ほどでバグザールに着いた。バグザールとはどうやらバスターミナルのことらしい。僕は国境と同じようにチョルポンアタという「共通語」を使った。するとみな口を揃えて「ここじゃないここじゃない」と言った。さてどうするか、、僕はしばらく考えて「グジェ」という英語で言えば「Where」にあたるロシア語を使った。

この単語は旧ソヴィエト圏という恐ろしいほど英語が通じない国々において絶対的に役立つ単語であった。グジェ・アフトブス・モージュナ(どこ・バス・できる)、こういうカタコトのロシア語は一切旅中勉強もしていないにもかかわらず自然に覚えて言った。旧ソヴィエト圏においてはロシア語を覚えなければリアルに話が通じない。カタコトの英語くらいは通じるだろうという甘い考えは気がついたらなくなっていた。

どうやらもう一つバグザールはあるようだった。バグザールからバグザールに向かうバスのナンバーを聞き出し、僕はバスに乗った。思ったよりも近くにもう一つのバグザールはあった。

もう一つのバグザールにつくと客引きが「チョルポンアタ?」と聞いてきた。値段も250ソム。ぼったくってはいない。僕は即チョルポンアタ行きのミニバスに乗り、疲れを癒すかのように座った。

そのまま4時間ほどでチョルポンアタに到着した。お昼ごろにアルマトイを出発し、直線距離にしたら4時間ほどで到着する、時間がかかっても夕方には着くだろうという予想に反して結局到着したのは夜10時だった。

到着する直前に僕は近くの乗客から携帯を借り、チョルポンアタで会おうとしていた日本人に電話をかけ迎えに来てほしいと告げた。彼女はすぐに向かうからと言ってくれた。

チョルポンアタのバグザールはバスターミナルと呼べるのかと疑問になるほど何もなかった。建物が存在していない。おそらくビシュケク行きだと思われるマルシュルートカやミニバスが止まって客引きをしているだけだった。だが、いずれにしてもそんなことはどうでもよくなった。僕がずっと会うことを楽しみにしていた日本人がやってきたためだった。

ゆかりさんとはちょうど一年前の7月に出会った。僕は短期でペルー旅行していた彼女とペルーのクスコで知り合い、もう一人の短期旅行者と一緒に行動していた。それはその後のナスカ、そして人生最大の苦しみであったリマに比べれば思い出としては薄かったものの、本当に楽しかった思い出であった。

彼女はペルーにいたとき、今度青年海外協力隊でキルギスに行くと言っていて、その後、青年海外協力隊で実際にキルギスに赴任をしていたことはフェイスブックの書き込みを見て知っていた。ペルーで別れた後、中央アジアルートで日本に帰ると決めたあたりから、彼女とは何回か連絡をとってキルギスに行くときには再開しようという話をしていた。

僕は真っ暗闇の道端で彼女と握手をして再開を喜び、そのまま乗り合いタクシーで彼女の家に向かった。彼女は青年海外協力隊でキルギスに赴任しているため研修でキルギス語を徹底的に勉強したようだった。この英語がまったく通じない国においてキルギス語が話せる彼女は頼もしく見えた。それは1年前とは逆の構図だった。ペルーを初めとする中南米諸国は、(僕は常にスペイン語を話すため気がつかなかったが)一切英語が通じないことで有名な地域である。

僕は彼女の家に着き、シャシリクと呼ばれる羊の串焼きと、ポテトサラダと、ビールを飲み彼女と1年ぶりに積もり積もった話をし始めた。

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2日後に彼女の友達の隊員がやってきた。

チョルポンアタはキルギスのリゾート地であり、ソヴィエト時代は立ち入ることができなかった神秘の湖、イシククル湖がある。

僕らは4人でチョルポンアタの観光地の一つである岩絵を見に行った。岩絵のある広大な敷地を4人でおしゃべりしながら歩く。ピクニック気分で楽しく歩いた。

岩絵はそんなにたいしたことはなかったが、ここから見えるイシククル湖は綺麗だった。また、普通に歩いていて馬や羊がいる光景は中央アジアの雰囲気を存分に味あわせてくれた。

イシククル湖

イシククル湖

岩絵から帰った後はバザールへ行き、海に向かった。バザールではクムスと言う、中央アジア遊牧民の伝統的な馬の乳の酒を飲んだ。この酒は発行しすぎていてまずかった。僕がまずいというリアクションをするとみんな笑った。

海ではビールを飲んだ。ビーチに行ったときにはイシククル湖の奥の山に雲がかかりはっきりと見えなくなっていた。それはそれで残念だったが、協力隊員と話しているうちにそんなことはどうでもよくなった。

楽しい日々は続いていった。JICAのボランティアの一環なのかはわからないが、彼女らは孤児に日本のことを紹介するようなことをやっていた。僕はそれを見学させてもらえることになり、一緒にキャンプ場のようなところへ行った。その後は山へ行き海へ行き、毎日酒を飲んだ。とにかく楽しかった。途中雨が降ってきたりさまざまなハプニングもあったが、それすらも楽しいと思えた。

彼女らは実にいい人だった。集団生活が面倒になった瞬間もないわけではなかったが、それでもこの日々は本当に楽しかった。こんなに楽しいと思えた日々は随分と久しぶりだとさえ思えた。

でも、そんな楽しい日々の中でも僕は時折一人になり、色々なことを考えていた。JICAボランティアにに対して思うところもあったし、考えさせられることもあった。

綺麗な湖と山に囲まれたチョルポンアタの生活の中で日本を思った。僕は山に登ったときに東の方を向き、帰る方角を確かめた。

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