キルギス青年海外協力隊



中央アジア旅行記

~好奇心の磨耗~

楽しい日々は続いた。協力隊員の男性と彼の弟が遊びにやってきて僕らは飲み会を始めた。チョルポンアタについてからずっと飲み続けている。

弟と奥さんは世界一周をしようとしている人だったので色々な情報を教えたりしていた。キルギスは旧ソヴィエト連邦の国であるためかロシアの影響が強くウォッカはもっともポピュラーなお酒の一つとなっていた。僕は隊員にウォッカを飲まされ続け、ベロベロに酔っ払ってしまっていた。

次の日に隊員の女性二人はビシュケクに帰り、僕は男性隊員と弟さんとその奥さんと、そしてゆかりさんと一緒に男性隊員の家でカレーパーティーをした。冷凍された鳥を一羽丸ごと解凍し、煮込んで日本製のカレールーを入れた。日本のカレーの味は懐かしかった。

僕はバックパッカーではない日本人のパーティーを心行くまで楽しんだ。

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女性隊員二人がビシュケクに帰ったため、夜はまたゆかりさんと二人になった。最初の2日間僕らは二人でキルギス料理を食べながら熱く熱く語っていた。

最後の日、彼女は現地人の家に遊びに行く予定だったが、予定を変更して家にいることになった。

JICAボランティアとは何なのか。僕はここに来るまで、青年海外協力隊に応募しようと思っていた。****のため合格するかは別にしてもチャレンジをしようと思っていた。ある程度のお金をもらえてなおかつ日本語教師の仕事ができる。それは、もし可能になるならば、大きなチャンスだった。

だが、ここにきてJICAボランティアをやるというのはどうだろう、という疑問が大きくなった。

待遇面においては僕が数年前に人から聞いていた話と実際はだいぶ違っていた。給与は月9万円+生活費と言う話だったが、どうやら民主党政権時代の事業仕分けによって月5万円+生活費315ドルに減らされているという話だった。確かにこれだけ税金の使い道に世論がうるさくなっている時代において、それは当たり前のことなのかもしれない。東日本大震災が起きて国内が大変な思いをしている中で、海外でボランティアをする意味があるのかという批判もあるということだった。最もな批判であるとも思えた。

もちろんボランティアで日本語教師はやりたい。しかもそれに給料がつくのならばなおさら。でも、どこか迷っていた。日本で軍資金をためたあとに、個人で働く場所を見つけるのも悪くない。オーストラリアに出稼ぎに行くのも悪くない。まだワーキングホリデーにはいける。もしくは日本で普通に働いて普通に暮らしていくのも悪くない。

いろんなことを考えた。迷いはいつでもつきまとい、それは終わることがない。人は常に何かの判断をしながら生きている。お昼ごはんは何を食べようかというような小さいことからどういう風に生きていくのかという大きなことまで。その判断をしない人生にだけはしたくない。

僕はゆかりさんにJICAに対して、また青年海外協力隊員に対してかなり失礼なことも言った。そしてそれは討論になるくらい白熱した。こんなに熱く語ったのは久しぶりだった。僕は失礼なことを言ったにもかかわらずそれを受け止めてくれた彼女の度量の大きさに深く感謝をした。

結局話は夜中の3時ごろまで続いた。ボランティアとは、仕事とは、世の中とは、大きな概念的なことを答えが出るわけでもなく幾度となく話し込んだ。話しているうちにこの人はボランティアにふさわしい人だと思えた。こういう人に青年海外協力隊をやってほしいと思えた。JICAは人を見る目があるのだろう。



次の日にはビシュケクに行って次の目的地に行かなければならない。もはやウズベキスタンにいくこともやめようと思った。せっかくビザを取ったにもかかわらず、どうしても行く気になれなかった。

それには色々な理由があった。飛行機でアルマトイまで飛んでしまってモンゴロイドの顔に慣れた後また、イラン系の所謂自分たちとは違う顔の世界に戻り、ルート的に真っ直ぐ行っていないのが嫌になったのもあったし、ウズベキスタンの税関や警察が面倒と言うこともあった。

だが、何よりも僕はもう早く日本に帰りたかった。もう旅の気力は底をついていた。日本という自分の生まれ育った国を離れてからもうすぐ1年10ヶ月が経過しようとしている。仕事もしておらず定期的な収入もない不安定な異国での生活はずっと続いている。初めは1年で帰ってくると思っていたこの旅はいつの間にかその倍近くの期間を経ようとしている。なぜこんなに長くなったのか、そのために僕は多くのものを失った。だが、同じように多くのものを手に入れた。

「好奇心の磨耗」という深夜特急の言葉を思い出した。僕はいつの日からか、好奇心を失い始めていた。それは突然ではなく、あくまで徐々にではあるが、確実に失いつつあった。グルジアあたりからなのか、スペインやポルトガルあたりなのか、いつからかはわからないが、日本に帰りたいという気持ちは強くなっていた。

「旅の序盤は旅が楽しく旅のことを考えてばかりいるが、終盤になればなるほど好奇心は磨耗し、旅の思い出が走馬灯のように思い返される」と深夜特急に書かれていた。僕はこれまでずっと好奇心を失わないように、失ってはいないと自分自身に思い込ませながらやってきた。それは必要なことだった。旅に対しての好奇心を失いながらも旅をやめるわけにはいかないという自分自身のわけのわからないプライドがあった。そのプライドだけはどうしても守りたかった。旅の意味を考え始めれば何時間でも経過した。

もういい。もういいだろう。僕は次に行きたいのだ。バックパッカーという不安定な生活をやめて何かをしたい。やりたいことはたくさんある。それは夢と呼ぶべき大きな事から村上春樹の小説を読みたいという小さな事まで、日本でやりたいことがたくさんある。

僕はこの好奇心の磨耗に対して喜んだ。僕は深夜特急の主人公「私」と同じようなことを考え、同じようなことを思ったのだ。今時沢木耕太郎の深夜特急を読んでる人がどれくらいいるのかもわからないが、あのバックパッカーの古典的な小説の主人公と同じことを思えた。それは長期旅行をしなければわからないことだった。僕が長期旅行をしたといえる一番の証拠になるのかもしれない。

だが、僕は深夜特急の主人公、「私」とは違う部分もあった。僕は旅が終盤になればなるほど、旅と言う過去のことではなく旅が終わった後の未来を考えるようになった。日本語教師をやるのかやらないのか、日本で暮らすのか海外で暮らすのか、輝かしい未来なのか荒んだ未来なのかはまったく予想もつかないけれど、僕はこれだけの長期間旅をしてきたという事実は自分自身の必ず何かを変えるエネルギーになるだろうと確信していた。

僕はゆかりさんと別れ、男性隊員達と一緒にビシュケクに向かった。マルシュルートカに乗る直前ぼくはゆかりさんとハイタッチをした。いつか世界のどこかで再開しようと心に決めた。

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