プリンセス島の思い出



中東旅行記

~はじめまして~

イスタンブールにはまだ会ったことがない友達がいた。

トゥルチエというトルコ人とはいつの間にかネット上で友達になり、結構な回数チャットをしてそれなりに仲良くなっていた。

トゥルチエは日本語を勉強してチャットではほぼ問題なく日本語でコミュニケーションが取れた。イスタンブールにもう一度訪れる際は、このトルコ人と会うということはなんとなく自分の中で決めていた。

アクサライはイスタンブールの中では特に治安が悪く汚いと言われているエリアだった。僕はそのアクサライのトラムの駅でトゥルチエと待ち合わせをした。途中ユーロを両替し、トラム乗り場の入り口で彼女を待った。

15分ほど待っても彼女はやってこなかった。携帯電話を持っていない自分にとって約束の時間に来ないということは不安以外の何者でもなかった。電話をしたいときはいちいちWIFIの通るカフェに行ってスカイプから電話をしなければならない。携帯の端末を買えばいいだけの話だが、かたくなにそれだけはしなかった。

20分ほど待つと、何事もなかったようにトゥルチエと友達はやってきた。僕らは頬をくっつけあうトルコ風の挨拶をして日本語で会話をした。彼女らは「どこに行きたい?」と聞いてきたが、特段行きたい場所はなかった。僕はイスタンブール観光はすでに終えており、どちらかというとトルコ人と話をするという目的のためだけにイスタンブールに滞在していた。

アクサライからファティーというエリアに歩いて向かった。ここにはオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させたときのカリフ、メフメト2世の墓と、それを記念するモスクがある。僕らはここでしばらくたたずみ、モスクの周りにいる猫を見ながらのんびりと散歩をした。

彼女も友達も好奇心旺盛に日本人と話そうとする強い意志と、日本語に対する真摯な態度があった。また、彼女らも僕から見れば異常ともいえるほど優しく、愛情があり、純粋だった。この旅で出会ったトルコ人は皆このような人間であり、僕は胸をうたれたような思いに浸った。

トゥルチエはご飯や飲み物などすべて奢ってくれようとした。僕が断ると「あなたはゲストでしょ?ゲストをもてなすのはトルコの文化よ!」と日本語で言った。なんという文化だろう。旅を始めてから1年半以上が経過し、数百の人々と出会ってきた。今まで何回も何回も感動し、時には涙すら流した。それなのに、こんなに素敵な人がまだいるのかと思うと、僕はどうすればよいかわからなくなるくらいに感動した。

彼女は純粋だった。物事をそのまま受け取って子供のようにはしゃぐ仕草、すぐに「恥ずかしい」という日本語を口にするその姿は現代の若者には珍しい、どこか昭和の日本人女性を思わせるものがあった。今の日本人がなくしてしまったとても大切なものをトルコの人々は持っている気がした。

ファティーをしばらく散歩した後、僕はイスタンブールに東方正教会の本部があるという情報をネットで見て、そこに行きたいと言った。彼女らは場所がわからず、人に道を聞きながら僕をその教会まで案内してくれ、2時間ほど歩いたが、結局場所がわからずたどり着くことはできなかった。

彼女らは「ごめんなさい!今日はとても悪い日だね!たくさん歩いたのに何も観光できなかった。」と言った。

もう観光などどうでもいい。本気でどうでもいい。僕はこういう純粋な人達と話をすることができただけで本当に幸せだった。

トゥルチエは別れ際にプレゼントをくれた。すべてをやってもらい、なおかつプレゼントまで、、僕はプレゼントを空けることなく鞄にしまい、泣きそうになるのをこらえた。この純粋さに何度も耐えられなくなったが、一応大人なのでと思い、涙は流さなかった。

・・・数日後、トゥルチエと一緒にプリンセス島にいく事になった。彼女は以前と同じように遅刻をしてきて「ごめんなさい!」と言った。僕は「遅いよ!」と注意をした。

プリンセス島へは船で1時間半、9月にイスタンブールに来たとき、トルガと一緒にこの島に行ったことがあった。船から見えるマルマラ海とボスポラス海峡の透き通るような青さはいつになっても変わらなかった。

真っ青な空の下で、綺麗で爽快な海を堪能しながら、飛んでいる鳥にパンをあげたりしているうちに1時間半はあっというまに過ぎた。

プリンセス島を散策し、僕らはまるで中学生の遠足のように楽しんだ。あまり睡眠が取れていなく、また天気もいいので途中何度も眠くなったりもしたが、本当に楽しかった。僕は子供のころに返ったような気分ではしゃぎ、また時には日本語の先生のように彼女に正しい文法で、なおかつよく使われる日本語を教えたりしながら、この天気のいいトルコの優雅な島を楽しんだ。

イスタンブールは海に囲まれており、魚介類が豊富だった。僕らは昼食に魚を食べた。プリンセス島はイスタンブールと同じように物価が高い。レストランに関しては日本とは比べ物にならないくらい高い。普通にレストランで食事をすると30リラ(1800円)くらいする。特に高級店というわけではない。日本にいるときから基本的にほとんどレストランはおろか、外食すらしない自分にとってこの出費は痛手だった。

イスタンブールは物価が高い。昔はバックパッカーの沈没スポットとして有名だったこの街も今では下手なヨーロッパの国よりも物価が上がり、バックパッカーが沈没できるような場所ではなくなった。チャイが120円、ドネルケバブも安くて300円、高いと600円。ロカンタというトルコの食堂で食事をすると1000円は普通に超える。タクシム広場やプリンセス島などの観光地では一食2000円以上もする。日本で吉野家が300円と考えると物価が安いとは言えない。

そんな物価の高い街でもレストランや市場は人であふれている。高いレストランは満席で、お客のほとんどはトルコ人である。・・・経済がどんどんと発展していっている。街中にエネルギーが溢れている。イスタンブールはもはや発展途上国の街ではない。日本も1960年代はこういう雰囲気だったのだろうか?

経済が上り調子のトルコは今後どんどんと成長し、いつかは経済が落ち目の国である日本を越えるのかもしれない。

・・ここでもごく普通に彼女はおごってくれようとした。僕は申し訳なさでいっぱいになり「せめて20リラだけでもだしたい。お願いします」と言った。彼女は「ゲストにお金をだしてもらうなんて恥ずかしい」と言った。恥ずかしいのはこちらのほうだった。いくらお金がないとはいえ、何でもかんでもおごってもらうわけにもいかない。たとえそれが文化だとしても、日本人として、大人として、こんな純粋な人々に対して迷惑をかけるわけにはいかない。

今まで、僕はいろんな人からある意味での施しを受けてきた。だが、トルコの人々のあまりの純粋さに、お金をだしてもらうことに、絶対に慣れてはいけない。これを当たり前だと思ってはいけない。

僕は彼らに対して何ができるのだろう?。考えても結局何もできない自分の無力さを知った。僕にできることはお金ではない。トルガもギュルシンもジャスミンも、トゥルチエも、絶対にお金を受け取らない。ゲストからお金を受け取ることを「恥」だと、本気で思っている。

僕は彼らに対して笑顔になることと日本語を教えること以外にやれることはなかった。嬉しさと悲しさと申し訳なさが混ざった感情は僕の心の中を渦巻いた。

お金がないのも事実だった。エクセルで自分の家計簿を作っていた。日本に帰った後のことも考えると使えるお金はあまり残されていない。日本に帰って働いてお金を稼ぎたいという思いは強くなった。

はしゃぎ回っていたら、いつのまにか夜になっていた。夜にはピデと呼ばれるトルコ風ピザを食べ、船に乗ってイスタンブールに帰った。この日は日曜日だった。もう土日休みの生活を何年もしていないにも関わらず、サザエさん症候群のような日曜日の夕暮れの寂しさを味わった。



僕が家に帰ると、トルガは毎日笑顔で僕を迎えてくれた。いつもおなかを指差して「おなかは空いていないか?」と聞いてくる。

僕は笑顔で彼と話す。話すといっても共通言語はない。それでも意外と心と心はは通じあうもので、彼とのコミュニケーションに支障は一切なかった。一緒にストリートファイターⅡをやったり、グーグル翻訳を使って話をしたり、日本食を作ったり、毎日が楽しかった。言語はあくまで手段であって、心と心が通じ合えば、むしろ言語はいらないのかもしれないと知った。

ある日、僕は彼に日本語を教えた。日本語教授法には英語で日本語を教える間接法と日本語だけで直説法があると日本語教師の資格を取る中で学んだ。僕は図を描いたり、ネットを駆使したりして日本語を教えた。初めて面と向かって教科書を使って日本語を教えることができた。

彼に日本語を教えるのは楽しかった。うまく教えられたかは全然わからないけれど、とにかく笑いあっていた。楽しいならばそれでいいのかもしれない。

イスタンブールで出会ったトルコ人のように、純粋な外国人がいる限り僕は今後も日本語教師の活動をしていきたい。今はボランティアだとしても、今後も収入がないとしても、最悪日本語教師の仕事をできないとしても、絶対に何かしらの形で外国人と関わりながら生きていきたい。

こういう人たちとの出会いが旅をすること、国際交流をすることの醍醐味である。これだけは絶対にやめられない。長期旅行が終わったとしても辞めるつもりは一切ない。

TOP      NEXT


inserted by FC2 system