ヨーロッパ格安旅行の準備





~ヨーロッパへの準備~

エルサレムに到着したのは夜だった。イブラヒムもここで働いているアーネストも僕が二日間、ここにいなかったのを知らなかったかのように同じ挨拶をした。もしかしたら彼らは僕が誰だかもわかっていないのかもしれなかった。

あと3日。僕は準備をする必要があった。ヨーロッパの物価の怖さはドイツでトランジットをしたときに嫌というほど感じた。そして、ヨーロッパの旅の刺激のなさも今までの経験から知っていた。何か攻めることをしないとヨーロッパはつまらなくなる。そのための準備だった。

ヨーロッパ野宿計画。ヨーロッパで宿を使わない。人の家か野宿しかしない。お金がないということよりも、自分の攻めの姿勢を崩したくなかった。

中南米の要領で僕はライブモカの友達に家に泊まりたいというメッセージを伝えたり、新しい友達を探したりした。旅中、まずは南米に集中するといってヨーロッパの人は若干ないがしろにしてきたが日本にいたときに本当に仲のよかったネット上の友達は、むしろヨーロッパだった。

イタリア・スペイン・ポーランド・イギリス・トルコ。各々に友達はいた。だが、日本にいたときとは違って、中南米にいたときは時差の影響と、中南米の友達に集中していたことからほとんど連絡を取っていなかった。

時差も彼らと同じになり、僕は連絡を取るようにした。彼らとは何も変わらず連絡は取り、ベラベラとお喋りはできた。だが、中南米と違って、やはり家に泊まるということになると警戒心は強かった。自分がよくても親にとめられる、学校の寮に通っている、部屋がない・・・日本と同じような感覚だった。むしろ中南米が異常だったのだと思うようにした。

とりあえず新しい友達を作ったり、これまでの友人と関係を構築していくことで時間は過ぎた。初めから家に泊まりたいというスタンスが相手に警戒させているのかもしれないと思った。だが、本気でこの物価の高さはどうしようもなかった。

本気で仲のいい友達は家に泊められないことが悲しいと言ってくれ、安いホテルを全力で探してくれると言ってくれた。僕にはこういうホスピタリティーだけでも十分だった。こういう得体のしれない、会ったこともない日本人にこんな風に言ってくれる人々は中南米だけではなく、世界中どこにでもいる。自分の小ささを知った。

いよいよカウチサーフィンの出番が来た。カウチサーフィンというホストファミリーを探すことに特化したホスピタリティーで運営されているサイトは、物価の高いヨーロッパで旅人にとって絶大な効力を発揮する。中南米では友達が多かったため、一度も使う機会がなかったが、ようやく出番がきた。

登録をして自己紹介を英語で書き、ホストファミリーに「家に泊まって外国人とコミュニケーションがとりたい」というメッセージを送る。それでも返信は遅く、断られた。出発時までにすべて断られていた。

治験のサイトの登録もした。ドイツとイギリスでは日本人向けに治験をやっている。これはバックパッカーにとって一つの定説となっていた。お金がない今、僕は治験をやろうと思っていた。だが、自分の持病のために治験ができるかは不明だったため、一応このお金は計算に入れないことにした。

すべてを計算に入れてルートを考えた。ヨーロッパだけは一人旅だとしても自由気ままに旅はできない。南米では人に振り回されて自由な旅をしなかった。ヨーロッパでは予算の関係で自由な旅ができなさそうだった。だが、これでよかった。むしろこうやって自由な旅ができず、振り回されることは理想だった。

イスラエルからトルコのイスタンブールのチケットはある。ギリシャのテッサロニキからローマへ、ヨーロッパを代表するLCC、ライアンエアーで安いチケットを取った。 家に泊まれないとしても、会いたい友達は多かった。それも考えてルートを決めて言った。

イスタンブール→テッサロニキ→ローマ→ナポリ→ジェノバ→サンレモ→ニース。予定はすべて未定だった。これあくまで仮のルーティングだった。だが、物価が高いヨーロッパは南米と違って人に振り回されるのではなく、リアルに予算の関係で予定を崩すのは難しそうだった。

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この準備でパソコンに向かう機会が多くなっていった。自由気ままな旅がしたいとは言うものの、毎日毎日、自由きままな旅はできなかった。

時代は変わっていた。今はパソコンやアイフォンで情報を得て、そしてお金を節約したり、現地人とコミュニケーションをとっていく時代になっていた。Wifiが海外でこんなに普及したのもここ数年のことだった。僕は時代の変化に逆らうでもなく流されるでもなく、この波に乗りたかった。

これはすべてにおいていえる事だった。すべてにおいて時代が変わってきている。インターネットがあることで、いままで構築されてきたものがすべて崩れ去っていくような、ムーブメントがおきようとしている気がした。そんなムーブメントを起こす一員になりたいと大さんという旅人は言っていた。どこか印象が強かった。自分がこのムーブメントの一員になれるかはわからなかった、だが、僕は常に思想を伝えたかった。その影響を受けてくれる人が一人でもいれば、これほどの喜びはなかった。それは今の時代だからこそできる、ブログやSNSでいつでもどこでも自分の考えが表明できるこの時代ならではのことだと、この当たり前の環境に感謝した。

この宿は楽しかった。旅を始めてもうすぐ1年が経過しようとしている時に、僕は所謂バックパッカーとして旅を満喫し始めた。ようやく乗ってきた。

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時間は流れるように過ぎていき、いつのまにかエルサレム最後の日になった。僕はカウチサーフィンでホストを見つけられず、日数と時間をかけたのにも関わらず、全くと言っていいほどヨーロッパの準備が出来ていなかった。

エルサレムでは多くの日本人の旅行者と話をした。僕はこの旅を始めて1年目にしてようやく旅人らしくなった。ある時はみんなで観光し、ある時は語りつくし、ある時は夜景を見に行き、またある時はネットをひたすらやっていた。こんなある意味で駄目な日本人バックパッカーがそんなに嫌にならなくなっていた。だが、それはこの宿にたまたま恵まれただけなのかもしれなかった。

僕はイスタンブールからヨーロッパに至るまで、また現地人としか絡まない生活を始めようとしていた。また数ヶ月日本人と話さないやり方を貫くことになる。それどころか、宿すら使わない計画を立てようとしている。これでいいのかは全然わからないけれど、まずはやってみようと思った。だが、本当に危険なことはしないということも自分に約束した。これまで幾度となく旅を続けてきて、何が危険でなくて何が危険で、何はやってよくて何はやってはいけないのかは自分なりにわかっているつもりだった。

イスタンブールはアジアとヨーロッパの架け橋、ヨーロッパでもあり中東でもある。つまりここからヨーロッパの旅は始まっていると言うこともできる。僕は気合を入れなおした。エジプトは物価が安かった。イスラエルは物価は高かったが宿がドネーションでなおかつ食事つきだったため相対的に物価は安く感じた。ここからは今までのように優しくはない。世界で一番物価が高い地域を旅行する。これは僕にとって死活問題でありなおかつわくわくさせるものだった。

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僕は最後の日エルサレム旧市街をぷらぷらとあるいた。これまで写真を納得するまで撮り、納得するまで教会を見続けたことで最後の日だけはのんびりと見て周ることが出来た。同時に僕はヨーロッパのことを考え始めていた。自分の想いが全部冷たく壊されていく、日本の都市部と似たような感じがヨーロッパにある気がしてちょっとだけ嫌になった。

宿に戻りパソコンルームで何人かの日本人と話をして、シャワーを浴びてパッキングを始めた。フライトの時間は朝4時だったので時間だけはいくらでもあった。

パッキングが終わり記念写真を撮り、出発のときが来た。彼らはバス停まで僕を見送りに着てくれた。はじめて数人の日本人に大きな声で「ありがとう!」と言った。

そのままテルアビブに向かった。テルアビブはエルサレムから1時間ほどの距離しかなかった。こんなに近い都市と都市の移動ははじめてだった。

テルアビブのバスターミナルで偶然日本語ぺらぺらのユダヤ人と会い、空港行きの列車を教えてもらった。そのまま僕はダイレクトに列車に乗り壊れそうなバックパックに苛立ちながらも空港へ向かった。

空港に着いたのは午後10時ごろだった。チェックインの時間まで3時間ほどあったのでネットをした。するとジャスミンからメッセージが来ていた。

彼女は英語と日本語で「今すぐ話がしたい」というような事を言っていた。僕は早速スカイプで彼女とボイスチャットをした。

「お父さんが駄目だっていうから私の家に泊めることは出来ないけれど、あなたがイスタンブールにいる間、私の友達の家に泊まっても大丈夫だよ」と彼女は言った。

エルサレムでカウチサーフィンを頑張ったにもかかわらず、イスタンブールのホストを見つけられず、本気でイスタンブール空港泊になるのかと不安になっていた分、彼女の言っていることは信じられないくらいに嬉しかった。僕は日本語で「ありがとう!」と何回も言った。

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