トルコ人とのカウチサーフィンでの出会い





~はじめてのカウチサーフィン~

トルコの人々はみな人懐っこく、紳士的な人間ばかりだった。それは友達だけでなく街を歩いていて話しかけてくる人たちも同じだった。

破れたズボンを無料で縫ってくれたおじさん、道をたずねたとき、わざわざ地下鉄に一緒に乗り、目的地まで連れて行ってくれた若い男、バックパックが壊れたときに直すのを手伝ってくれたヒジャブーをした若い女性。こんなにも見知らぬ人に対して人懐っこく、親切な国はなかなかない。僕はトルコという国の人々の見知らぬ人へのホスピタリティーを一生忘れないようにと誓った。

その親切な人々が多いイスタンブールの街で、僕はこの数日間の間に3人の友達が出来た。

僕はエルサレムにいるときに、ライブモカで一人のトルコ人と知り合っていた。ギュルシンという名前の彼女には突然家に泊めてほしいとお願いしたことで若干不愉快な思いをさせてしまった経緯があり、僕はネット上で心のそこから謝った。彼女は許してくれ一緒にコーヒーでも飲もうかという話になり、僕はイスタンブールの新市街に向かった。

あるショッピングモールでちょっと大人っぽい女性が現れると僕はすぐにギュルシンだと分かった。彼女は僕とほとんど年齢は変わらないが、子供が二人いるという話をネットでしていた。出会ってすぐに僕は頭を下げてネットで申し訳ないことをした。ごめんなさいと英語で謝った。彼女は笑って「もう大丈夫よ」と言った。僕らは小一時間ばかりチャイを飲みながら彼女の子供の話やトルコの話をした。彼女は英語の先生で英語が堪能だったため、僕らは特に問題なく話をすることが出来た。残念ながら彼女には時間がなく、僕が「ヨーロッパが終わったらまた戻ってくるよ」というと「楽しみだわ!」と言った。僕らは駅で写真を撮り、別れた。

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ある日、カウチサーフィンでメッセージが届いた。

トルガという僕と同じくらいの男性は日本が大好きで、日本人と話したいから家に来てくれというメッセージを送ってきた。僕はセダットの家を出た日にトルガの家に移動した。ツリーオブライフに行かなければいけなかったことを考えると本当にラッキーだった。

僕は朝、セダットと別れ、ウスキュダルから船でエミノニュに向かい、そこからトラムで彼の家の最寄り駅を目指した。彼の家は思いのほか遠く、僕はまた遅刻した。彼にごめんなさい!と言ったが彼は一切気にする様子もなく家に連れて行ってくれた。

彼は友達と二人で暮らしていた。今まで中南米を含めて男だけと交流するのは初めてだったのでその中に入り込むのはちょっとだけ怖かった。僕は申し訳ないと思いながらも警戒しながら彼と話をしていた。だが、彼は本当に挨拶程度の日本語は話せるが、まったくと言っていいほど英語が話せなかった。彼の持っていた、それぞれの言葉をトルコ語と日本語に訳すスマートフォンのアプリを使い僕らはなんとか言葉を交わした。そのアプリも完全に使えるわけではなかったが、僕らはなぜかうまくコミュニケーションが取れた。僕は言葉がなくても仲良くなれるという確信をした。

彼は仕事を休んで僕をプリンセス島に連れて行ってくれた。何故こんなにも親切なのか分からず、僕を連れて行っている間に友達が家においてある僕の鞄から物を盗むのではないかと疑った。僕はクレジットカードとパスポートをバックパックから出し、自分のサブバックに入れた。彼はカウチサーフィンで自分の住所と電話番号を晒してしまっていたので、まさか危ないことはしないだろうとは思っていた。だが、それでもどこか警戒していた。

彼はあまり多くを語らず、常に紳士的だった。カタコトの日本語で、僕に寒くないか?大丈夫か?おなか減っていないか?喉が渇いていないか?といつも聞いてきた。そしてコーヒーを奢ってくれ、プリンセス島に行く船の料金も払ってくれた。

僕ははじめは警戒していたが徐々に慣れてきて心を許すようになった。彼は本当にただ、日本人と話がしたいだけのとてつもなくいい人だった。彼の家にもどると彼の友達はトルコ料理を作ってくれ、僕らは全く共通言語がない状態で、会話がほとんど出来ないまま、でも笑いながらトルコ料理を食べた。僕は彼らの優しさに感動した。むしろただ日本人というだけでこんなに優しくしてくれて、共通言語がないにもかかわらずこんなに一緒に笑っているというのは初めての経験でなおかつ不思議な経験だった。カウチサーフィンでメッセージが届いてから、初めてコンタクトを取ってから5日も経っていないのにこんなにもよくしてくれるたホスピタリティーは一生忘れずに感謝し続けなければならないと心に誓った。僕はトルガに日本語で「ありがとう。ありがとう。ありがとう」と何回も何回も言った。彼は笑っていた。何の見返りもなく紳士的で多くを語らないその優しさは本物だった。

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ある日、またカウチサーフィンでメッセージが届いた。

アスルという少女はまだ19歳の大学生だった。彼女は日本が好きで、少しだけ日本語を勉強しており、カウチサーフィンでイスタンブールにいる外国人に声をかけて一緒に遊んでいるようだった。ある日僕らはフェイスブックを交換し、日にちを決めて会う約束をした。その日は僕がギリシャ行きの夜行バスに乗る日だった。

トルガは仕事でいなかった、トルガの友達にトラムの駅まで見送ってもらい、僕は約束したシルケジ駅に向かった。だが、思ったよりトルガの家は遠く、結局約束の時間に遅れた。しかも僕は彼女の電話番号のメモをどこかに閉まってしまい、結局近くのネット屋でもう一度調べて彼女に電話し、シルケジ駅のトラムの入り口に来てほしいといった。

もう一度シルケジ駅に戻ると、若い眼鏡をかけた金髪のヨーロッパ風の美人が現れた。僕は彼女とベシートをした。その後すぐに、時間に遅れて申し訳ないと言ったが、彼女はそんなに気にもしていないようだった。僕らはシルケジ駅からスルタンアフメト駅まで歩き、一緒にご飯を食べた。その後彼女の友達と合流し、アヤソフィアの前でチャイを飲みながら、彼女の勉強のこと、彼の仕事のこと、ヨーロッパでどこの国がすきか?などを話し、写真を撮った。彼女も彼も感じのいい人間で、僕にご飯を奢ってくれた。僕は「申し訳ないから払うよ」と言ったがお金を絶対に受け取ってくれなかった。僕らはシルケジの駅まで戻り、トルコの形式どおり、彼とは握手を、彼女とはハグとベシートをしてオトガルに向かった。

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イスタンブールでは最後の最後まで全員が全員いい人間だった。ジャスミン・セダット・ブルジュに加えて、ギュルシン・トルガ・アスル・・・・彼らは全員、この何も持っていない日本人旅行者に何の見返りも求めることなく笑顔で、時には無表情で僕に多くのことをしてくれた。僕はトルコのイスタンブールという街で中南米とはまた違った形で多くの人間と関わり、そしてそれはスペイン語から英語・もしくは言葉が通じない状態に変わった。

これから始まるヨーロッパ。今までカウチサーフィンやライブモカを使った感じでは中南米やトルコに比べるとおそらくそこまで多くの人と関われないことはなんとなく分かっていた。だが、それでも、僕がずっと、ずっと行きたかった場所へ行けることが、喜びだった。

もはや何でもよかった。物価が高くて死にそうになっても、野宿をしても、人が冷たくても、友達と会えなくても、暑くても、寒くても、ヨーロッパの地に自分が存在できることそのものが僕にとって喜びであり、それだけで満足できるものだと確信していた。

オトガルから夜9時にギリシャのテッサロニキ行きのバスは出発した。待ち望んでいたヨーロッパの旅が始まった。

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