ローマ旅行記・ローマの休日



365連休・ローマの休日は続く

~365連休を超えてもローマの休日は続く~

多くの旅行者と同じようにローマに魅せられる日々は続いた。

僕はこの間に旅の誕生日を迎えた。この旅を始めてからこの日は1年目だった。僕は1年で日本に帰るつもりだったが、はじめの4ヶ月でメキシコとキューバしか行っていないことで1年で日本に帰ることは無理だというのは分かっていた。そしてなんとなく旅の誕生日をローマで迎えたかった。なんとなくではあったけど、この日をローマで迎えられるように列車のチケットなども取っていた。

ローマを歩き回り続けたせいか、宿が夜遅くまで車の音でうるさくてあまり眠れていないせいか、この日は朝から疲れ果てていた。僕は二度寝をして、レストランで2ユーロのピザを食べて、エスプレッソを飲んで、治験の準備をしてまたゆっくりとローマを歩き始めた。

サンタジェロ城を北に越えて、裁判所を通り、ポポロ広場に行った。広場を一通り眺めた後ピンチョの丘を登りゆっくりと歩いた。昼まで寝ていて、レストランでゆっくりしていたせいか、気がついたときにはもう夕方になっていた。

ピンチョの丘をふらふらと歩き回り、ボルゲネーゼ美術館の前で座り込みいろいろと考えた。夕日に映えるボルゲネーゼ美術館は綺麗だった。ローマに魅せられてローマを歩き回って、このローマという思い焦がれていた街で1年目を迎えることができて本当に幸せだった。

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旅を続けた1年で、僕は多くのものを手に入れ、そして多くのものを失った。

僕はこの1年でお金を失った。
僕はこの1年で社会的地位を失った。
僕はこの1年で大切な人を手に入れ、そして失った。
僕はこの1年でスペイン語を手に入れた。
僕はこの1年で多くの友人を手に入れた。
僕はこの1年で大切な思い出を手に入れた。
僕はこの1年で何か分からないけれど何かを手に入れた。

旅をしていく上で、むしろ生きていくうえで、何かを手に入れ、何かを失い、また何かを手にいれ、また何かを失い、それを繰り返して生きて、そして死んでいくということを30年近く生きていく中で知った。

僕は未熟な子供でしかない。働いていないからという社会的な意味ではなく、自分が何も守るべきものが無く自分勝手に生きているという気持ちの問題だった。

僕の旅はまだ続いていく。もうちょっとだけやらせて欲しいと自分に言った。旅をしていて社会的な意味で不安になることはある。それはお金を稼ぐことが出来ないとか日本社会に適応できないというような意味とはちょっと違っていた。それはむしろ、自分が他の人間のために生きていない、社会に生かされているにも関わらず社会に還元できていないことへの悔しさであった。

旅を続ける中で、旅を終えたら何でもいいから、自分が一番活きる方法で、社会に対して還元していきたいと強く思うようになった。働きたいと思うようになった。お金のためでなく、ただ誰かに喜んでもらえるような仕事がしたいと思うようになった。

だが、もうちょっと、もうちょっと続けさせて欲しい。もうちょっと、この世界を心行くまで楽しみたい。それが終わったら死んでもいいと思えるくらいのことをやり遂げたい。自分で納得したい。その期限は切っている。その期限はお金というリアルな問題で切られている。



よくわからないけれど1年目を迎えてこんなことを考えた。おそらく多くのバックパッカーは同じようなことを考えているのではないかなと思いながら、ピンチョの丘をまた歩き出した。

気がついたらスペイン階段に来ていた。ローマの休日でオードリーヘップバーンがアイスを食べたことで有名なあのスペイン階段。6年前もきたはずなのにはじめてきたような感覚がした。ローマの休日。僕のローマの休日は365連休を越えてなお続く。

夕日が綺麗過ぎて、立ち止まって見れなかった。ローマはすべてが綺麗過ぎて立ち止まって見れない。ただ歩き続けた。夜のローマを歩き続けた。

スペイン階段の夕日

またいつものカフェで申し訳なさそうにネットをつなぎ、次に行くナポリのカウチサーフィン、安宿、列車のチケット、イタリアで会うヨーロッパで一番仲のいい友達とのチャット、、、、などなどをやっている間に時間は過ぎた。

そしてまた夜中中車の音がうるさい宿に戻った。すると宿のアラブ人は「明日予約で一杯だから明日は泊まれないぞ」と言った。

旅を始めて一年目、僕は日本に帰ることもせず、ずっと憧れていたローマに魅せられ街を歩き回り、そして自分の泊まるところを失いかけて、安い列車のチケットを探すのに必死になってパソコンと格闘し、ピザを食べてカフェラテを飲んで、仲のいい友達とチャットをしていた。

1年を経て、なんだかんだと理屈を並べても、結局僕は大切な人もお金も失ったホームレス寸前のバックパッカーにしかなっていなかった。ただ、こういう状態を笑い転げれるようにはなった。

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次の日、宿の無い僕は夜にチェックアウトを終えてそのまま宿の入っているビルの踊り場で一泊した。ここには誰も来ないことは分かっていた。飛行機からくすねてきた毛布をかけバックパックを枕にしながら眠った。

朝起きると調子が悪い。やっぱりベッドで眠らないと安眠できないのだと自分の体のことが分かってきた。僕はまた安宿をネットで探し、10ユーロの宿を見つけた。

僕はこの宿を目指し、トラステヴェレからテルミニ駅の近くのエマヌエーレ通りまで歩いた。前日にテルミニ駅の中のスーパーで買った1リットルの牛乳を一気飲みしたせいで思いっきり下痢になっていたが、何とかマンマミーアという安宿にたどり着いた。

ここは10人ドミトリーで部屋は狭かったが、10ユーロくらいなら当たり前だと思い、ベッドに行き洗濯をした。洗濯機は無かったので自分の持っている洗剤を使って洗面所で洗った。ジャージは汚れていた。

パンを食べた。ローマに来てからパンとピーナッツクリームとピザとカフェラテと水道水を繰り返し食べて飲む生活は続いていた。段々とこの食生活にも慣れ、お腹いっぱい食べなくても、なんとかなるということを知った。

再びローマを歩いた。「すべての道はローマに通ず」という格言があるように、アッピア街道はローマ帝国時代の面影を残していた。数千年も前の時代に、これだけの道を作り、多くの地域からローマを目指してやってくるというロマンはこの遺跡を見ていくうちに増幅された。

道はどこの国にもある。飛行機という先端技術がある今、人々は道を意識することはあまりなくなった。だが、ユーラシア大陸は、必ずすべての場所が道で繋がっていて、上海という東のはずれからロンドンという西の外れまでバスや電車を使っていくことが出来る。それは時代によって国の情勢によっては不可能かもしれない。事実、深夜特急でバスでロンドンまで行ったのはインドからだった。だが、大陸ごとに必ず「道」は存在している。そして、日本という島国は船で朝鮮半島・もしくは中国大陸に渡ることが出来る。

僕らは行きたい所へは時間かお金をかければ必ず行ける・・・道は必ず存在している。

僕はひたすらにアッピア街道をあるいた。

僕はローマに10日間ほどいたことで段々とこの街に慣れ、写真も撮らなくなってきていた。ただ、歩いていた。ある日ジャージを洗濯したことで僕はインドの民族衣装であるルンギーをはいていた。その格好はヒッピーのようだった。だからかは分からないがスーパーマーケットの外で30セント恵まれた。僕のことがホームレスに見えたのかもしれない。僕は恥ずかしくなったが、その感覚も徐々に失われてきていた。僕は恵んでくれた人に元気いっぱいに「グラッツィエ!!」と言って歩き出した。

ローマが終わる。中南米からユーラシアに来て、エルサレム・イスタンブール・そしてこのローマは僕にとって世界で一番恋焦がれる場所であり、一つの来るべき場所であった。この3つの都市に来たことで、僕は一つの目的を達成した気がした。後はゆっくりとゆっくりとヨーロッパを楽しめればいいなと思うようになった。旅を続けて、いつ終わるかも分からなくて、頭が混乱することもあるけれど、ケセラセラ、なるようになるさと自分に言い聞かせながら、ローマにたたずんでいた。

「vedi Napoli e poi mori~ナポリを見てから死ね」という格言の通り、ナポリは死ぬまでに見ておきたい場所だった。ローマを終えてひと段落したにもかかわらず、ヨーロッパには次から次へと見たい場所、行きたい場所があった。さらにナポリにはカウチサーフィンのホストを見つけることが出来た。

僕は一つの大きな目的を果たした達成感と次から次へとやってくる出会いへの期待感を持ちながら、ナポリ行きの席の無い列車でパンとピーナッツクリームを食べた。

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