ケルン大聖堂とライン川





~ケルン大聖堂を見て~

病院が用意してくれたホテルに泊まり僕は年末をゆっくり過ごしていた。だが、今まで泊まったことがないようなクオリティーの高いホテルであるにもかかわらず、僕は持病の喘息に悩まされ、夜中に起きたり、眠れなかったりしていた。治験のために薬を飲むことも出来ない。とりあえず温かい料理を食べて温かいシャワーを浴びて体温を上げることで少しだけ喘息は治まってきていたが、不安定な状態は続いていた。

僕にとっては喘息が苦しいというよりも治験ができない不安の方が大きかった。自分の体が弱いという現実と治験が出来ないという現実は受け入れなければいけないが、もし出来なかったら帰国日が決定するのはなんとも嫌だった。

デュッセルドルフはヨーロッパ一の日本人街であるということは去年の年末一緒にいた日本人とスカイプで話したときに聞いた。そういわれてみれば日本食レストランや日本の本屋がたくさんあり、その界隈には日本語の張り紙も多い。サンパウロよりもむしろ外国にある日本人街という感じがした。だが、年末年始ということでどこも休業になっていた。

特に何もすることもなく、体を休める日々は続き、いつの間にか12月31日を迎えた。本当はベルファストで会った日本人と共にスイスでヨーロッパのインターナショナルパーティーに参加するつもりだったが、敢えて行かなかった。それは、、、一人になって考えたかったからだった。

大晦日の日、僕は一人でケルンに向かった。ケルンにはヨーロッパでもっとも素晴らしいゴシック建築の一つであるケルン大聖堂がある。この大聖堂を見て年末を一人で過ごそうと決めた。

デュッセルドルフから電車で30分ほどでケルンに着く。僕は駅を出た瞬間に見えるケルン大聖堂に圧倒された。

ケルン大聖堂

ケルン大聖堂は今まで見てきたヨーロッパ・アメリカの建築の中でもっとも大きかった。大聖堂ならではの大きさに加えて、ゴシック建築に特徴的な概観の彫刻の繊細さは素晴らしいというほかなかった。中はステンドグラスや礼拝堂が輝き、僕はそれを見ながらこの大聖堂の中をふらふらとずっと歩いていた。

この大聖堂を見て、ドイツという東フランク王国から始まる1500年以上の歴史の重みを感じた。ドイツというヨーロッパの中でも特に歴史と情緒ある国で年末年始を迎えることが出来たのは幸運だった。僕は久しぶりに観光地で写真をたくさん撮った。

ただ、天気はよくなかった。また、灰色の雲はこの日も僕をちょっとだけ憂鬱にさせた。僕は憂鬱な気分のままケルン大聖堂から駅を超えて、ライン川と大聖堂を同時に見渡せる場所に行った。風が強い。天気は悪く寒かったが、この大聖堂の力強さはそれを忘れさせた。僕はケルン大聖堂とライン川の周りをぐるぐると、そして淡々と歩き続けた。

ケルン大聖堂

夜になりライトアップされると、天気の悪さは関係なくなった。この1年、いくつもの素晴らしい夜景を見てきたが、この夜景もその素晴らしい夜景に負けないくらい、むしろ今年一番ではないかと思えるほどの美しさだった。この1年はアメリカとヨーロッパで所謂「美しいもの」を見てきた1年だった。何度も何度もヨーロッパ的、アメリカ的「美しさ」を見る事で僕は何度もそれに魅了され、そして何度も飽きてきた。

僕は新しいアングルの場所へ行き、ケルン大聖堂と教会がクロスする絶好の景色を眺められる、ライン川に架かる橋へ行った。

ケルン大聖堂

僕はライン川とその向こうに見えるケルン大聖堂を見ながら、いろんなことを考え、自分自身に語りかけた。

2012年、メキシコから始まったこの年は、今までの人生の中で一番幸せだった。ラテンアメリカでは常に女性に囲まれ、日本に愛する人がいて、スペイン語を話し、ずっと夢を思い描いていたヨーロッパでは現地人と英語でコミュニケーションをとり、大好きなヨーロッパの空気を吸い、ヨーロッパを歩いて、ヨーロッパ建築を嫌というほど見て、ヨーロッパの文化の真髄を味わった。

だが、幸せすぎた分自分が弱くなったのも事実だった。人間の三大欲求をちゃんとコントロールできずににダラダラとした日々も多々あった。ダラダラとネットをやる日々も続いた。

メリハリがなくなり自分がどんどんと駄目になっていくのを感じた。そして将来の不安だけは募っていった。

幸せすぎて自分が弱くなり、ストイックさを失った。この旅に出る前の自分はもっと格好良かったとも思えた。あの頃、三茶にいた頃、何もなかったあの頃、僕は輝いていたし格好良かった。あの頃のストイックさはこの旅の中でいつのまにか消えた。同じように本来旅で身に着けるべきストイックさというものを、僕は日本にいたときに持っていて、旅の中で失うという皮肉だった。

また、僕は寛容さを失った。旅で本来身に着けるべき寛容さというものを僕は身につけられずにいた。そのために他のバックパッカーが嫌いになり、自分のスタイルに固執した。また、愛する人を失う結果にもなった。

それは余裕がないことの裏返しだった。僕はこの一年、幸せな環境で甘やかされたせいで常に自分で自分を満たせなくなっていた。「足るを知れ」という言葉を忘れた。それはこの幸せが日本に帰ったときにはなくなるのではないかと、特にエジプト以降に感じるようになったからだった。海外にいることが幸せと感じ日本にいることが不幸と感じる、国籍をなくした日本人の不安感もあった。

だが、国籍を失った日本人はチャンスをつかめるとも思えた。この旅を続ける中で僕は日本に対する見方が変わった。インターネットは僕にとって毒でもあったが薬でもあった。このインターネットという技術によって、僕は外国人と常に話し、外国人の家に泊まるという一つの旅のモデルを確立した。また、日本にいる家族や友人とも無料でいつでもどこでもネットさえ繋がっていれば会話が出来るということを知った。この二つは僕にとって革命であった。この革命から導き出される答えは「別に日本だけが生きる場所ではない」ということだった。僕は日本を客観的に、外から見ていて、日本は今後住む場所として一つの選択肢でしかなくなっていた。

これから始まる2013年、不安は多い。お金という現実を見て、そして日本で、一時的であるにしても、仕事をしてお金を稼ぐという現実が待っている。だが、もう一度僕は夢を見ようと決めた。現実は現実として存在している、そこから逃げることは出来ない。だが、現実から理想を形にすることは決して間違いではない。僕はこれからも決して落ち着かない。スティーブジョブズのDon't settleという言葉を思い出した。不安は一瞬にして希望に変えることが出来るということも知っていた。

「悲観主義は気分によるものだが楽観主義は意志によるものである」というあるフランスの哲学者の言葉を僕は365日前に自分のノートに書きとめた。

いろんな面で悲観的になったこともあった2012年だった。だが、それを自分の意志で楽観的に持っていこうと努力をしたのも事実だった。僕はこれからもあくまでも自分の意志で自分の将来を掴み、そして自分の意志で強く明るく楽観的に生きていく。それは来年・再来年も、死ぬまで変わらない。

2013年、もっと格好いい人になるために、もっといい人になるために、さらに刺激的で楽しい日々を送るために、僕は一つの大きな動きを起こそうと決心していた。それは2012年のこの旅がベースになるものだった。

2012年という人生で一番幸せで、幸せすぎて弱くなるという今までの人生で経験したことがない感覚をを力に変えて、今を楽しむこと、そして未来の自分へ点を繋げること。今と未来の自分を信じること。これを忘れないようにしようと思った。

2013年、僕は日本に帰る。一時的なのか半永久的なのかは置いておいても必ず一度日本に帰る。それはある種の目標であり、また義務でもあった。

・・・ケルン大聖堂はただ力強く聳え立っていた。ライン川は街の光が反射し、幻想的に流れている。

デュッセルドルフに帰るとき、ケルン大聖堂は鐘が鳴っていた。その音は僕の胸に響き渡り、僕はドイツという歴史と伝統あるヨーロッパの国の空気を思う存分に味わいながらデュッセルドルフのホテルに帰った。

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