メキシコ人宅カウチサーフィン





~メヒカーナ~

疲れが絶頂に達している中、僕はエレーナと会う約束をした。これを一応最後にしようと決めた。スペインではカウチサーフィンは使わない。普通に宿に泊まって普通に観光しようと思った。カウチサーフィンは楽しいがこの約1ヶ月の間、疲れが大きく、また、一人でゆっくりと街を見ることができなくなっていた。

エレーナともまた市庁舎の前で待ち合わせをした。彼女は時間通りにやってきた。

カフェに入ってしばらく話をすると彼女は私はメヒカーナ(メキシコ人)よと言った。どことなく顔がヨーロッパ系でないのは気がついていたがまさかのメヒカーナ。急に親近感が沸いた。

僕はすぐに彼女と打ち解けた。僕は自分がメキシコにいたこと、メキシコが大好きなこと、中南米が懐かしいということをとうとうと話した。彼女は喜んでくれた。そこには一切の愛想笑いがなかった。メヒカーナはスペイン人に比べて打ち解けやすい。何が違うのか全然わからないけれど、ヨーロッパの人と話すときはすこし硬くなり、どこかよそよそしくなるが、中南米の人と話すときは心の底から本音で話し、自分が馬鹿になれた。これは英語とスペイン語の違いではなく、欧米と中南米の違いだと気がついた。

彼女は家に泊まってもいいよといってくれた。この速さ、このホスピタリティー、この何の躊躇もなく人を信じる性質、スペイン人が冷たいというわけではない。サラゴサで、マドリッドで、そしてセビーリャで僕は数々のスペイン人にお世話になってきた。僕はスペイン人が大好きだ。だが、やはり中南米の人は違う。何かが違う。何か爆発的なホスピタリティーを持っている。僕はテンションが急に上がり次の日には彼女の家に移動した。

彼女の家は郊外にあった。僕は彼女に言われたとおりバスで移動しようとしたが、誰に聞いてもそんなバス停はないといわれ若干あせりながら彼女に電話した。だが、なぜか大丈夫だという確信も持っていた。「メヒカーナは大丈夫。だってメキシコだから。」これは僕にとって何の根拠もない一つの確信であった。

彼女はわざわざ駅まで来てくれた。僕は彼女に一緒にバス停まできてもらい、運転手に話をしてもらい彼女の家の近くのバス停まで移動した。

彼女はスペイン人の女の子と家をシェアしていた。移動した日の夜、彼女のアパートの友達がやってきて飲み会のようになった。僕は彼らに日本食を作ってあげようとしたが、スーパーに売っていた醤油が中国製だったため日本食のようにはならなかった。それでも彼らは喜んで食べてくれた。部屋にはメキシコの音楽が流れた。中南米ではどこでも流れているメキシコの歌を聞いたとき、僕はメキシコのみならず中南米全体を思い出しノスタルジーに浸った。

僕は久しぶりに中南米、所謂ラテンアメリカと呼ばれる場所の雰囲気を感じ取った。もはや中南米は僕にとって第二の故郷とも呼べる場所になっていた。エレーナと話をしていたとき、僕はメキシコに「Ir(行く)」ではなく「Volver(戻る)」という単語を使った。今後旅程の中で行く予定がない場所に僕は敢えて「戻る」と表現した。特に意識したわけではなかったが、おそらくヨーロッパに「戻る」という表現は使わない。ヨーロッパはあくまで旅行している異国であるが、中南米は僕にとって第二の故郷であると確信した。



エレーナの家の周りは観光とは無縁の普通の人々が暮らしている団地のようなところだった。ずっと大都市にいたせいか、こういう静かな場所に僕は癒された。僕は一人で散歩をし始めた。写真すら撮らずに淡々と団地を歩いた。周りには普通のスペイン人が普通に暮らしている。子供が遊んでいたりおじいちゃんが談笑していたり、この地区にいることで疲れが癒される感じがしてきた。エレーナは僕と彼女の友達をあわせたがっていたようだが、僕は人付き合いに本気で疲れていた。彼女に申し訳ないと思いながらも一人でパソコンをいじって散歩をした。

僕は2つほどやらなければならないことがあった。そのためか、実際たいして外を歩くことすらしなかった。

一つはいつのまにやら終えてしまった日本語教師要請講座を実践レベルに持っていくという作業だった。実際、僕は数日前にライブモカで知り合ったコロンビア人にフェイスブックを使って教えてみた。「この旅中にある程度ボランティアで日本語を教えてみたい」そういう思いは強く持っていた。

そのためには自分でテキストを作る必要があった。要請講座で配布されたテキストは持っているが、英語で書かれているためスペイン語圏の人には使えず、また紙のテキストのためネット上で使用できないという欠点があった。親友とも呼べる友達のアルゼンチン人からPDFのテキストを送ってもらったが、文法的に難しくて生徒には向かない。また自分も書いてあるスペイン語が難しすぎてわからない。考えた末、僕はどうやって教えるかをイメージすることも兼ねて、英語のテキストとPDFのテキストとライブモカのコースを参考にしながら自分でテキストを作ることにしていた。

将来はどうなるかわからないが、僕はこの旅でお世話になった人々に恩返しがしたかった。僕にできる恩返しは日本語を教えることしかない。そう思えば思うほどやらなければならなかった。だが、なぜか一向に進まない。なぜ進まないのかまったくわからないまま、時間だけは無駄に過ぎていった。

もう一つは旅の醍醐味とも呼ぶべきルーティング作業であった。僕はスペインからモロッコに行きチュニジアに行きマルタに行き、というルートを考えていた。だが、思ったよりチケットは高く、ルーティングを一からやりなおさなければならなかった。

スカイスキャナーを使い悩みに悩んだ。久しぶりにルーティングで悩んだ気がした。今まで治験もあったせいか自然に次の目的地は決まっていった。だが、今回は治験もなく、スペインというある意味での最終目的地に到達した今、あとはイスタンブールに帰るのみであった。

どういうルートでイスタンブールに帰るか、その前にウクライナにいたときにカウチサーフィンを送るだけ送り結局いかなかったルーマニアにだけはどうしても行きたかった。8月に日本に帰ると決めた今、日程にそんなに余裕はなく、なんとか今月中か来月の頭にはイスタンブールに着くようなルーティングを練った。

すでに1年6ヶ月ものんびりだらだらと旅しているなかで、最後にタイトな日程になるのは想定の範囲だった。

僕は日程と予算とルートを決めるために僕はスカイスキャナーの画面をにらみながら頭を掻き、真剣に考えた。

現地人の家で暮らしたり、人付きあいに疲れたり、スペイン語の勉強をしてきたりとわけのわからない形になりながらも、ルーティングを練っているとき、自分は旅をしていると実感できた。

結局、モロッコとチュニジアはカットすることにした。予算と時間がもうない。お金も時間も無限にあればこんな悩みはなくてすむのだろうが、逆にそれでは面白くない。お金と時間が有限だからこそ旅人は考える。

フィンランドに飛びバルト三国経由でルーマニアに行くパターンと、マルタに飛びイタリア、アルバニア経由でルーマニアにいく2パターンを考えたが結局後者になり、僕は一番安いバレンシアからマルタに行くチケットと、マルタからイタリアのバーリに行くチケットを取った。バーリからアルバニアへは船が出ている。

・・・結局このルーティングを決めるために4,5時間経過してしまい、僕は何にもできなかった。この旅でゆっくりのんびり自由気ままという概念はすでにない。僕はカウチサーフィンで誰に会うかをエクセルにまとめたり、ルーティングを考えたり、Web上の日記をつけたり、ともはや仕事のようにパソコンと向き合うことが多くなっていた。

だが、そんな中でも、現地人と話すこと、考えること、歩くこと、だけは心がけた。僕はパソコンをやってはいたが彼女と話をすることは忘れなかった。また彼女はメヒカーナであり、僕が大好きな人間だった。僕は馬鹿になり彼女とはなした。ベシートをしてハグをした。彼女と話していると次々とメキシコのこと、中南米のことが思い出された。懐かしい、故郷に帰りたいというような感覚に陥った。日本の次の故郷とも呼べる場所が生まれたのは僕にとって幸せなことだった。

夜9時ごろになると夕日が沈む。エレーナたちの家はマンションの高いところにあった。彼女と一緒に僕はしばらく夕日を見つめていた。旅中どんなに忙しくても夕日の綺麗さを忘れたくはなかった。



次の日、僕は数日間の滞在のためポルトガルに向かった。セビーリャから2時間ほどの街ファロ。ここに何があるかはまったくわからなかったが、僕はとりあえずポルトガルに行きたかった。

それは、ポルトガルに行くことで、僕の人生で今まで行ったことのある場所をつなげると、日本からポルトガルまで、ユーラシア大陸横断が完成されるというただの自己満足のためだった。

TOP      NEXT


inserted by FC2 system