イタリア-アルバニアの船(フェリー)





~野宿~

空港に着き、僕はバス停をさがした。バーリからアルバニアのドゥレスと言うところに船がでているという情報を得て港に向かうためだった。

夜9時に空港に到着し、ネットで調べた限りではドゥレス行きの夜11時出発のようだった。空港に一泊するか、そのまま港に行くか迷ったが、とりあえず港にいくことに決めた。

空港のインフォメーションセンターで港行きのバス乗り場を聞き、バスに乗った。運転手に港という意味のイタリア語、「ポルト」と告げ、椅子に座った。はじめ乗客は誰もいなかったが途中十数人の若者が乗り込み騒がしくなった。

バスは30分ほど走った。グーグルマップで見た感じでは港は空港の近くにあったため僕は本当に港につくのか疑わしくなり、運転手に何度も確認をした。運転手は大丈夫大丈夫と言い僕はバスの中で待つしかなくなった。

バスは街のど真ん中でとまった。運転手は「ここから20番のバスに乗れば港に着くぞ」と言った。

ここは、どう見ても中央駅だ。明らかに一度港をスルーして、街の中心部に来ているようだった。僕はとりあえず20番のバスを探した。夜10時になりそうだった。間に合うかどうかはわからないが、いまさら宿を探すのも面倒で一泊分の宿代を浮かしたいということもあり、一応港に行ってみることにした。

だが、一向にバスは来なかった。誰に聞いてみても港行きのバスは今日はもう終わっていると言われた。歩いて港まで行くことを考え、道を聞こうとしたが、「この時間は船ももうない」とバスのインフォメーションセンターの人に言われ、僕はあきらめて次の日に港に向かうにした。このインフォメーションセンターの人が言っていることが本当なのかはかなり疑わしかったが焦って先に進もうとして夜遅くに街をうろうろすることで、危険が増すということはこの旅の中で学んだことだった。

宿に泊まることも考えたが、僕はどうしても一泊分浮かしたかった。幸いにも駅の近くにはマックがあった。ここでパソコンを充電しようとしたが何も買わないでコンセントプラグを探し回っている姿がホームレスに見えたのか、マックにいたガードマンは僕を警戒し始めた。つたない英語で国籍を質問され、「日本人だ。パソコンの充電がしたい」と答えると、コンセントプラグの場所を教えてくれたが、「5分だけだぞ」と念を押され、僕は5分の間マックのガードマンと話をしていた。

マックで眠ることは不可能だった。だが、幸いにもどうやら駅は24時間オープンのようだった。僕は駅の中でかばんを椅子にして小一時間ばかり休んだあと、眠れそうな場所を探した。歩いていて夜でもそんなには寒くなく、野宿も可能だとわかった。ただ、夜中にホームレスなどに襲われる心配があり、なるべく人がいそうなところを探した。

駅の隣に屋根がついている休憩スペースのような場所があった。さらにこのスペースの近くには警察署があり、何かあればあそこに駆け込もうと思い、このスペースで眠ることにした。野宿は久しぶりだった。

バックパックの中から2枚の毛布を取り出した。1枚の毛布を床に敷き、バックパックを枕にしてもう1枚の毛布をかけて眠った。街頭がまぶしく僕はカバンの中からアイマスクを取り出しさらに帽子を深くかぶって眠った。

・・・夜中に寒さで目が覚めた。僕はバックパックの中からセーターとマフラーを取り出し、再度眠った。結局眠れていたのか眠れていないのかよくわからないまま朝がやってきた。

20番のバスに乗り港に向かった。なぜかバスは無料で乗ることができた。僕はようやく港に着き、チケット売り場を探した。だが、誰に聞いてもここにはアルバニア行きのチケットはないといわれるだけだった。しかも英語が通じず、どこでアルバニア行きのチケットが買えるのか全然わからなかった。

僕はとりあえず「アルバニアアルバニア」言いながら四苦八苦しながら場所を聞き出し、僕は2キロ離れたチケット売り場に歩いて向かった。バックパックが重い。夜あれだけ寒かった気温も昼になると一気に上がり、徐々に暑くなってきていた。

ようやくチケット売り場でドゥレス行きのチケットを買うことができた。だが、予想通り、船の出港時間は夜11時だった。船に乗り込むことができるのが夜8時。出発まで約10時間、荷物を預ける場所もない。

僕はまずWIFIカフェに行き、日記を書いていた。だが店のマスターらしきアラブ人は愛想が悪く、3時間ほどで店を閉めた。もうパソコンを開く気力もなくなり、眠ろうと思ったが眠れる場所もなさそうだった。仕方がなく僕はベンチに座り、重いバックパックを下ろして海を見つめながらしばらくボーっとしていた。前日も野宿であまり眠れていないので疲れが出てきたが、海をみていることで少し落ち着いた。

しばらくして僕は街を歩いてみることにした。イタリアの地球の歩き方はすでになく、バーリという街が、アルバニアやギリシャ行きの船がでていること以外にどういう街なのか全然わからなかった。

「たしか深夜特急ではギリシャからイタリアに船で渡っていた。ということは沢木耕太郎はこの街を通ったのだろうか?」僕は深夜特急と言うバックパッカーの古典みたいな小説を思い出し、少しだけあの古典と同じ場所に来たという風情に浸っていた。ロンドンもコルカタもバンコクも行ったことはあったのにそんな風に思ったことは一度もなかったが、なぜかバーリだけは感慨が沸いた。

おそらく旧市街だと思われるところを歩きカフェでエスプレッソを頼んだ。バーリにはヨーロッパの気品あふれる雰囲気はなく、どちらかというとナポリのように街がゴチャゴチャして汚い雰囲気だった。僕はこういう汚いヨーロッパを久しぶりに感じ、懐かしさを覚えながらエスプレッソを飲んでいた。

店の店主らしき人は、僕のパソコンの画面を布巾で拭いてくれた。イタリア語で何を言っているかはわからなかったが、その笑顔だけは確かにわかった。

僕は店主らしき人にグラッツェと笑顔で言い1ユーロを支払った。アルバニアはユーロではないため、コインだけは使い切らなければならない。そのまま街中を歩き、道端に座って以前に買った食パンを食べていると、老人が何か話しかけてきた。イタリア語なので一切何を言っているかはわからなく、僕は何か盗まれるのではないかとちょっと警戒をしていた。だが老人は僕に菓子パンを買って与えてくれた。僕がホームレスに見えたのか、旅人に見えたのかはまったくわからなかった。

バックパックを持ったままこんなに長時間行動したのはこの旅の中で初めてだった。僕はカウチサーフィンを使った旅とはまったく別次元の地のままの現地人と関わる感覚を味わった。ホームレスのように宿がなく、重いかばんを担ぎながら歩き回っている。こんな状態だからこそ、人の冷たさも優しさも感じることができ、人をちゃんと見ることができる。

「家がなかった」という経験はいつか大きな力になるだろう。

段々とあたりは暗くなり始めた。僕はEU圏の出国スタンプを押され、船に乗り込んだ。

当然船の中はベッドなどなく、僕はまた床に毛布を敷いて眠った。

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