パラグアイの日系移民



~日系人のおじいさん~

そこには何もなかった。道路が一本だけあり、その横に民家が数件並んでいる。あとは見渡す限りの畑と原っぱだった。

パラグアイは田舎だった。今まで行った中南米のどの国よりも田舎だった。日本と同じ国土を持ちながら人口が日本の300分の1しかない。国土のほとんどは手付かずの自然。アスンシオンやシウダーデルエステなどのほんの一部の大都市を除いて、多くの土地で数少ない人たちが自然に囲まれながら農業を営んでいる。



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僕はカラガタウという村にやってきた。旅行者はおろかほとんど人がいない村。というよりも村にすらなっていなかった。村のように一塊になっているわけではなく、一本の道路を隔てて民家がぽつぽつとある。牛や犬が当たり前のようにその辺で寝ている。原っぱの集落と言ったほうが正しいかもしれない。

カラガタウ

ここにやってきたのは、ある日本人と会うためだった。僕は偶然にもこうすけさんとイタグアで連絡を取り、ここに来ることを薦められた。「日系一世の仙人のようなおじいさんが住んでいるから」とだけ言われ、何がなんだかわからず、とりあえず1時間に1本しかないバスに乗ってここまで来た。

奥に入っていくとものすごく顎ひげの長い老人が座っていた。久岡寛さん71歳。第二次世界大戦後、高知県からパラグアイに移住した日系1世である。

僕はこれまで日系移民について、1908年に笠戸丸に乗ってブラジルに渡ったこと、ブラジルでの生活が苦しかったこと、ロサンゼルスのリトルトーキョーとサンパウロのリベルダージという二つの大きな日系人コミュニティーがあるということ、くらいの知識は持っていた。だが、パラグアイに日本からの移民がいることも知らなかったし、そこでどういう暮らしをしているかということなどももちろん知らなかった。

挨拶もよそに久岡さんは自分の人生を僕に語ってくれた。戦前に満州で生またこと。終戦後、家族と共に満州から朝鮮に渡りそこから命からがら船で日本に帰ったこと。地元である高知県での生活。戦後間もない頃の日本。叔父さんからパラグアイで農作物が出来るという手紙を受け取り、それまでの学友と別れ一家を挙げてパラグアイに移住したこと。移住した当初の苦労。両親との死別。大豆畑を購入したが作物の実りが不安定だったこと。ウルグアイへの農作物の輸出に失敗したこと。

何よりも印象的だったのは、1989年パラグアイでのクーデターによりストロエスネル大統は失脚し、それによりアメリカ向けに作物を輸出した際のパラグアイ政府に対する税率が変わったことで、そして偶然にもアメリカで大豆が不作になったことで、何十万ドルもの大金を手にしたということだった。

これらの話は僕にとってリアルに歴史を感じるものであり、教科書や街に売っているどんな本でも得ることが出来ないものだった。

・・移民とは戦前から戦後にかけて日本政府が人口を減らしたいがために行った政策であるということを初めて知った。僕はこれまで日本人がなぜ海を渡って南米に来たのかを知らなかった。
その頃の日本は貧しく地域によっては畑で農作物が取れない。その中で豊かな土壌のある南米に行けば農作物が沢山取れるという政府の情報に夢と希望を抱き、海を渡って南アメリカにやってきた。が、日本人移民にとっての南米は政府の情報とは異なり、作物は実らず、文化も全く違う。現実に絶望しある人はパラグアイからアルゼンチンやブラジルに逃げ出し、ある人は日本に戻った。そんな中で、農作物を作るのに成功した一部の人たちがシウダーデルエステ近くのイグアス、エンカルナシオン近くのラパス・ピラポーといった日本人街・日本人居住地を形成し、現在はその子供たち、孫たち、日系2世・3世がパラグアイという遠く離れた国で活躍している。

僕はこれまで日本人の閉鎖的な一面を沢山見てきたが、そうではない一面をパラグアイという国に来て知ることが出来た。海を渡った日本人達は新しい農法や大豆の輸出ルートを確立し、パラグアイ社会に大きく貢献している、そして彼らはパラグアイに溶け込み、パラグアイ社会の中で日本人は認められ、パラグアイは大の親日国となっている。



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「申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります。 日本は、明るくなければなりません。幕末、我が国を訪れた外国人という外国人が、驚嘆とともに書きつけた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、微笑む国民だったことを知っています。この性質は、今に脈々受け継がれているはずであります。蘇らせなくてはなりません。 日本国と日本国民の行く末に、平和と安全を。人々の暮らしに、落ち着きと希望を。そして子どもたちの未来に、夢を。わたしは、これらをもたらし、盤石のものとすることに本務があると深く肝に銘じ、内閣総理大臣の職務に、一身をなげうって邁進する所存であります。 わたしは、悲観しません。わたしは、日本と日本人の底力に、一点の疑問も抱いたことがありません。時代は、内外の政治と経済において、その変化に奔流の勢いを呈するが如くであります。しかし、わたしは、変化を乗り切って大きく脱皮する日本人の力を、どこまでも信じて疑いません。そしてわたしは、決して逃げません。 」

2008年9月、麻生太郎内閣総理大臣の所信表明演説の一部である。

日本の政治システム、経済状況、日本社会には悪い部分もある。僕は日本社会と日本人の嫌な面も今まで沢山感じてきた。だが、日本人は世界に誇れるような面も持っている。現に久岡さんをはじめとする日系移民は農作物の不作という難局を乗り切って成功を収め、パラグアイ社会に大きく貢献している。そして僕は日本から遠く離れたパラグアイという国で、多くの見知らぬ人に親切にされている。もしかしたら僕が日本人であるからではないかもしれないが自分が日本人であることを言うとなんとなくさらに親切になる気がする。これは今まで行ったほとんどの国でそうだった。

僕は日本だけがことさらすごい、日本人だけが大きな力を持っている、というような右翼的発想は大嫌いだが、例え経済が厳しくても、お金がなくても、仕事がなくても、日本人はもっと強く明るく笑いながら辛いことを乗り切っていって欲しいと思う。そしてそれは一人の日本人である自分へのメッセージにもなる。



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僕はこんな興味深い話をしてくれるような人の家でしばらく過ごすことにした。

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