パラグアイでの自給自足生活

パラグアイでの自給自足生活

〜100年前の日本の生活〜

久岡さんの家には文明の利器がほとんどなかった。あるのは数十年前の古びた電気炊飯器とインターネットだけだった。僕はこの何もない家で71歳の年配の人と、近所の子供と、3匹の犬と一緒に自給自足のような生活をした。ここは、これまで行ったどの地域よりも田舎で、これまで泊まったどの宿よりも、どの家よりも古かった。ちょうど100年前にタイムスリップしたようだった。

僕は久岡さんの家の畑仕事を手伝った。そこは原始林のような所で、大自然の中での畑仕事だった。久岡さんが買ってきたレモンの苗木を持って広大な畑に向かう。そしてスコップで地面に穴を開け、苗木を植え、次のポイントへ向かう。そんなに重労働ではなかったが日本にいたとき、ほとんど体を動かしてなかった分、この仕事は大変だった。でも、体を動かすのは気持ちのいいものだった。いつも頭で考えてばかりだがたまには体を動かした方がいい。

パラグアイの田舎

パラグアイの田舎

ここにはガスコンロがないため、食事はすべて薪を燃やして作る。まずは焚き火をしなければならない。ガスと違って火をつけるのにも技術がいる。紙は燃えやすいがすぐに火が消える。太い木は火が消えにくいがなかなか燃えない。そこでまずは紙を燃やし、そして小さい枝に火を移し、それを大きな木に移す。僕は火を全く出来なかったので久岡さんにやってもらい、燃えた火の上で犬と一緒にてんぷらを揚げたり、お湯を沸かしたりしていた。

パラグアイの田舎

パラグアイの田舎

こういう自給自足生活はどこかで経験したことがある。南インドの宗教都市オーロヴィルの一角にあるコミュニティーサダナフォレスト、数年前に僕の人生を変えたサダナの森。完全に思い出した。集まった世界中の人間が文明をすべて否定し、食事はすべてビーガン、すべてのケミカル品は使わない。ただただ敷地に木を植えるあのクレイジーな欧米人コミュニティー、、ここでの生活もそれに近いものがあった。



---

ここでの食事は純粋な日本食だった。味噌・梅干・アボガドの醤油づけ・キムチ・大根おろし・焼きピーマン・きゅうりのお新香・牡丹餅・てんぷら・そして、日本の米。紫蘇の葉っぱが庭に植えてあった。紫蘇の匂いが懐かしい。

日本にいるときは気づかなかった。毎日毎日当たり前のように日本の米を食べ、醤油を使った料理を食べていた。その当たり前の日本料理に今こんなにも飢えていて、こんなにも美味しいということをここに来てようやく知ることが出来た。

ここには五右衛門風呂があった。食事と同じように自分で薪に火をつけて沸かす五右衛門風呂。旅行中も、日本にいたときも、ずっとシャワーだった。湯船に入ったのは何年ぶりだろう。ここお風呂から外が見える。雨の日は寒いが天気がいい日は星を見ながらお風呂に入れる。

パラグアイの田舎

日本のめまぐるしく変わる時間の流れとは対照的にここでの生活はゆったりしている。南米は全体的にゆったりとしているが、ここはその中でもさらにゆったりとしていた。何にも追われず、ただ、今日食べることだけを考えて過ごす日々、僕はこういう生活にちょっとだけ憧れを持っていた。

だが、ここでの生活はそんなに良いことばかりではなかった。部屋の埃のせいなのか、古い布団のせいなのか、季節の変わり目だからか、あるいはそのすべての理由からなのか、僕はアレルギーを引き起こした。目は赤くなり、持病の喘息がでた。腕と足首が綺麗に虫に刺されている。これは蚊ではない、恐らくダニだと思われる。足首全体にぶつぶつが出来始めた。かゆくて、そして喘息が止まらない日々が続いた。



---

長期で海外を旅行していると己がよく見えるということを知った。

自分の体は急激な気温の変化に弱い。その代わりに胃腸は強くほとんど下痢にならない。インドでコレラになって以来、どこの国の生水を飲んでも全く問題ない。そしてインドは1年中ほとんど暑かった。でも、よく考えたらこういう風に移動しながら長期旅行をするのは生まれて初めてだった。しかも中南米は夜と昼で気温差が激しい所が多い、そして地域によっての気温差も激しい。ウユニの夜とアスンシオンの昼では恐らく気温は30度前後違う。

日本はいろんな面で設備が整っている。建物の中に入れば冬は暖かく、夏は涼しい。そして相当古い建物でない限り、すべて綺麗に保たれている。だから日本にいるときはほとんど体調を壊すこともなかったし、自分の体の変化に気づかなかった。僕はインドにいた時に、「己を見よ」という言葉をラマナマハリシから、そしてヴィパッサナー瞑想から学んだ。長期旅行をする中で外の世界を見るのと同時に、自分の国である日本を見ること、そして自分自身の考え、何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か、自分の体のどこが強くどこが弱いかという変化を見ることが出来た。

僕は自分探しの旅という言葉は嫌いだし、自分を探すために旅をしている人なんて実際には存在しないと思っているが、結果としてこういう風に自分の強さと弱さ、日本にいるときには設備が整いすぎて気づかなかった自分の体、こういったことを感じることができたのは大きな経験になった。



---

体調は悪かったけれど、それ以上にこの日本的な生活、今の日本で、特に東京ではあまり見ることが出来なくなってしまった日本的生活は僕にとって刺激的だった。周りには何もない、原っぱがあるだけ、家も立派とはいえない、小さい戸棚とお皿と鍋と机があるだけ、無数のハエや蚊が飛んでいる。清貧という言葉を思い出した。そして久岡さんはまるで仏のように優しく、ご飯を作ってくれ、「あったかいからお風呂に入りなさい」と言ってくれた。

畑仕事をちょっとだけ手伝い、食事の準備を手伝い、五右衛門風呂に入り、本を読んだりインターネットをしたり、話をしたりと悠々自適に過ごした。久岡さんはインターネットを去年からはじめ、フェイスブックもやっていた。僕はコピーアンドペーストのやり方とユーチューブから音楽をダウンロードするやり方とブックマークのやり方を教えた。何でもかんでもしてもらっているばかりで申しわけないと思っていたので一つでも役に立てることがあってよかった。

39歳年のはなれた、自分の親よりも年上のこの人は、僕に色んなことを話してくれた。

パラグアイには多くの成功した日系人が裕福に過ごしており、なおかつ久岡さんは大豆で成功してお金持ちなのにも関わらずこういう暮らしをしている。奥さんはアスンシオンに住んでいて子供たちは結婚している。子供も僕よりずっと年上だ。世間の目を気にしたらこういう生活は出来ない。でも、僕は久岡さんの生活に憧れを持っており、考え方も参考になることが多かった。

人はそこまでお金が必要なのだろうか?生活する以上のお金が必要なのだろうか?いい車に乗っていいものを食べて、死んだ後にいいお墓に入ることがそこまで重要なのだろうか?この人はこういった話を自分の人生を例に出して僕に何回も何回も教えてくれた。

それは僕も同じように思っていることだった。僕はこの人に比べて若く、未熟だがお金が必要ではないというのではなくお金にとらわれすぎないようにすること。これだけは忘れないようにしようと思った。

色々な生き方がある。こういう面白い生き方も出来るということを僕はまた一つ知ることが出来た。僕にとって世界中に立てられている記念碑を見て周ることよりも、いろんな国のいろんな人のいろんな生き方を知ることのほうが好奇心を満たすものだった。

ここは今までで一番きつかったが一番離れたくないホームステイ先だった。どこよりも刺激的でインパクトが強かった。旅行をするなかでこんな生活ができた自分の幸運を感謝した。

久岡さんから「幸せの種はるか」という本を見せてもらった。パラグアイへの日系移民の話だがその中に残っていた一節が妙に印象に残った。

「何かいい物語があってそれを語る相手がいる限り、人生は捨てたもんじゃない。」
「例え明日死ぬと分かっていても今日もリンゴの木を植える」

TOP      NEXT


inserted by FC2 system