イスラエルの入国審査





~暗闇のリゾート地~

エジプトのターバーはイスラエル国境の街。ここからイスラエルに入国するかバスで数十分ほどのヌエバアから船でヨルダンに入国するかはその人の判断による。

僕はヌエバアからヨルダンに入国し、アンマンからイスラエルに入国する予定だったが、ターバーから直接イスラエルに入国した。理由もなくただなんとなくだった。

イスラエルは入国審査が長いことで有名な国。中東諸国に囲まれた世界唯一のユダヤの国であり、周りにはイスラムの敵国ばかり、常に戦争が耐えない悲しき国である。僕は7年前に来たとき、40分ほど入国審査をし、色々なことを聞かれた。挙句の果てに数時間待たされ、朝到着したのにもかかわらず、エルサレムに着いたのは夕方だったことを忘れてはいなかった。

「そういえば今日、何も食べていない。」僕はエジプト側の国境の近くでビスケットと水を買った。だが、おなかは全くといっていいほど減っていなかった。むしろ胸が痛く気持ち悪かった。それはこの入国審査が理由ではなかった。

ビスケットをかばんに入れ、エジプトを出国しイスラエルのイミグレに向かった。一度行っているせいか、アラブの顔から急にユダヤの顔、白人の顔になることには驚かなかった。イミグレに入るのに、入国目的と滞在日数を聞かれ、荷物検査でも同じことを聞かれた。イスラエルのこの警戒心は7年経ってもまったく変わっていなかった。

荷物検査を終え、イミグレに向かった。若い女性の審査官は思ったよりはきつくなかったが、次々と質問をしてきた。質問内容も7年前と同じような感じだった。「一人旅か?」「なぜ一人旅をしているのか?」「エジプトに友達はいるか?」「現金はどのくらい持っているか?」「なぜイスラエルにきたのか?」「滞在日数は?」「なぜその滞在日数なのか?」「父親の名前は?」「父親の父親の名前は?」・・・・僕は同じ経験をしていたせいか、落ち着いて答えた。

イスラエルのスタンプがパスポートに押された場合、シリア、レバノン、イランには入国できなくなる。そのためバックパッカーは「ノースタンププリーズ」と言い、別紙に押してもらわなければならない。これはバックパッカーの中では有名な話であり、イランに行く予定のある僕は必ずこれをやらなければならなかった。

僕がノースタンププリーズと言うと、入国審査官は理由を尋ねた。僕は「自分にとってイスラエルは特別な国だから」とたいして思ってもいないことをいった。すると彼女は笑いながら別紙に押してくれ、ノースタンプはなんなくクリアできた。

7年前と違い、僕はまったく待たされることなく入国審査を終え、無事にイスラエルに入国した。あの時と違い、イランビザもシリアビザもレバノンビザも持っていなかったからなのか、単純に、システムが変わったのかはわからなかった。

僕はエルサレムに向かうため、国境からエイラットのバスステーションを目指して歩いた。だが、歩いても歩いても道しかない。所々高級ホテルがあり、欧米人のお金持ちがバカンスを楽しんでいる様子は見える。

国境の両替がしまっていたため、僕はシェケルというイスラエルの通貨を持っていなかった。ほとんど人もいない。たまたま通りがかった人に聞くと、バスステーションはここからバスで30分ほどのところにあるようだった。7年と言う年月はこういう細かいことを忘れさせるには十分だった。通りがかりの人は僕がバックパッカーだとわかったらしく、僕に丁寧に道を教えてくれ、ミネラルウォーターをくれた。

途中にあったホテルのATMでお金をおろして、ようやくシェケルを手に入れることができた。イスラエルは欧米とまったく同じ先進国であるため、レートはホテルの従業員の言うことを信用できた。このお金でバスに乗ってバスステーションに向かおうと思ったが、すでに夜遅くなっていてバスはもうなかった。タクシーだと日本円で800円ほどするようだった。しかもエイラットはイスラエルと言う先進国のリゾート地であるため、宿の値段が下手なヨーロッパの街よりも高くなることを思い出した。

僕はとりあえず歩いた。夜になると道に一切人はいない、真っ暗闇なった。怖かったが歩いた。むしろどうにでもなれと思うようになった。

「もうすぐ僕は・・」 考えるのをやめた。考えれば考えるほど怖くなった。強盗に遭うよりもこっちのほうが怖い。



しばらく歩くと、野外レストランのようなところを見つけた。

エイラットの野外レストラン

パレスチナ人なのか、アラビア風の格好をした親父は、陽気に僕を迎えてくれた。だが、僕は空腹だが何も食べれない状態と、重いバックパックを背負ってしばらく歩いた疲れで元気はなくなっていた。

とりあえずここに泊まることにした。こんな野宿のようなところだが1000円くらいした。やはりイスラエルの物価は高い。ここに泊まるのはかまわないが、荷物を盗まれないかが心配になった。

見知らぬ土地に一人、それも、ネットで知り合った現地人の友達もいなければ日本人もいない。ここの人が信用できるかどうかもわからない。その上、この状態。。。泣きそうだった。自分の感覚がおかしくなって恐怖感がなくなったなんてよくも言えた物だと反省した。僕はごく普通の人と同じように、むしろそれ以上に、怖かったり、寂しかったり、悲しかったりすることに敏感な人間だった。

だが、このなんだかわからないレストランのオーナーとイスラエル人と少し話をするだけで元気になれた。僕にはこういう出会いが今までなかった。いきなり知り合って知らない人と話をする。たいして英語もできなければたいした話をしているわけでもない。だが、こういうのに慣れてしまっていた自分、、、、「あの国って大体ああいう感じだよね」としたり顔で言ったりする自分、、、、、、思い出した。若いころ、ただ外国にいるだけで怖くて怖くてしょうがなくて、いやな人もたくさんいて、でも時々、人がものすごく優しくて、泣きそうになったり、顔を真っ赤にして怒ったり、自然と笑顔になったり。

こういう旅がしたい。友達も誰もいなくて、日本にも誰もいなくて、自分は一人で、すべて忘れて、消え去ってしまえるような旅、冷めてなく、でも冷静で、怒るわけでもなく、でも熱く、今この瞬間を楽しんで、そしていつ死んでもいいと思える旅。

「俺の夢は野垂れ死にだ」と江頭は言っていた。保身のないこの姿勢。この姿勢こそが、僕が今やらなければならないこと。

「そんなこと知ってるよ」という言葉をなくしてごらん。きっと世界が楽しくなるよ」という言葉を以前に何かで見たことがある。これも今僕がまさに受け入れなければならない言葉。

ステイハングリーステイフーリッシュ。この言葉の意味を体で感じ取れるようになりたい。頭ではわかってる。この言葉がどれだけ格好いいかを知っている。だが、それは体で感じたい。

それを感じ取れるだけのことができますか?できますよね?・・・自分に問いかけた。

僕は甘えきってそれでいてどこか冷めている自分の性格を嫌いになり、そして中南米とは違う旅のスタイルを作ろうと思っていた。

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